インフェルト   Leopold Infeld  (1898-1968)

ベルクマン、アインシュタインとinfeldボルンとインフェルト

左写真は背中がインフェルト、まさに議論の最中。
こちらむきは当時のもう一人の弟子、ベルクマン。
中写真はバリバリの頃。 右写真は、ボルン(左)とインフェルト。

レオポルト・インフェルトって、
御存知の方は少ないでしょうが、私は大ファンなので御紹介致します。

彼は、ポーランドの古都、クラカウの
貧しいユダヤ人街の靴屋の息子として生まれました。
子供の頃から、ガリレオの伝記を読んで感激するような
科学に大いに興味を持つ少年でした。

彼の父は、ユダヤ人街の住民の中ではずいぶん開明的で、
インフェルトが科学に興味を持っている事を、よく理解してくれました。
父の店は繁盛し小さな百貨店を経営するまでになっていました。
しかし、インフェルトがいくら優秀であったとしても、現在とは時代が違います。
貧しいユダヤ人街の少年が物理学者になる事は容易なことではありません。

彼は、苦労に苦労を重ねて、当時ポーランドでも数少ない
理論物理学の最先端の研究者となりました。

しかしその頃、ポーランドには反ユダヤ主義が台頭してきて、
ユダヤ人であるインフェルトに対して差別的待遇がひどくなり、
彼がポーランドで研究を続けることは、 もはや絶望的になってしまいました。

、、、

そして色々悩んだあげく、
勇躍、自由の国アメリカに渡る事を決断しました。

以前、講義を聴いて質問したりしていて、
少し知り合いだったアインシュタインに窮状を訴える手紙を出しました。

アインシュタインは、彼の能力を高く評価し、又、その状況に同情して
自分が勤めているプリンストン大学に来てはどうかと勧めてくれました。

幸いにも、少額ですがプリンストン大学の奨学金を貰える事になりました。
インフェルトには、お金がありませんから、奨学金だけが唯一の頼りです。
プリンストン大学の高等研究所が
彼を特別研究員(インターンのようなもの)として受け入れてくれました。

インフェルトがプリンストンのアインシュタインを訪問すると、
アインシュタインは、今までの経過を聞くでもなく、四方山話をするでもなく
挨拶もそこそこに、すぐに彼の今研究している課題について
黒板に数式を書きながら、詳しく説明し始めました。

インフェルトは驚きましたが、これは
アインシュタインがインフェルトを弟子として認めた、という事なのでしょう。

ほどなく、インフェルトとアインシュタインは本格的に共同研究に入ります。

こうしてアインシュタインの生涯唯一の内弟子(?)が誕生したのです。
インフェルト 38歳、1936年の事でした。
注 (1)

、、、

インフェルトは、アインシュタインの弟子として
素晴らしい研究の日々を送りました。

インフェルトは、学生時代から、ひとすじに理論物理学をやってきました。
彼は、「僕は子供の頃から不器用で、工作も何一つできなかっ た」と 言っています。
興味の対象も、純粋に数学的な理論物理学に絞られていたようです。

アインシュタイン一方、アインシュタインは実は意外にも
結構工学的なところがあり、
特許庁の職員だった頃、
自分でもいくつか機械関係の特許を取ったりしています。
でも、全然、お金にはならなかったらしい(*^_^*)
http://www.bekkoame.ne.jp/~o-pat/ein.htm

アインシュタインは数学の専門家ではありません。
相対論の基礎となる数学は、
ローレンツ、ポアンカレ、チビタ等からの「借り物」です。
しかし、深遠な思索により、
根本的な考え方の革命をもたらしたのです。

 

 


ミンコフスキー先生矢野健太郎著「アインシュタイン伝」による と、
アインシュタインは、チューリッヒ工芸大学の学生時代には
数学を専門にするか物理学にするか悩むほどで、
数学も大好きだったらしい。ところが、当時の数学の教授、
ミンコフスキー先生(写真)の授業が、あまりに退屈だっ たので、
すっかり数学が嫌いに なってしまい、
それで物理学専攻にしたんだとか、、、。

そのミンコフスキー先生が、
後には相対論に数学的基礎を与えてくれたのですから
これも、不思議なめぐりあわせですね。(^o^)


インフェルトはアインシュタインの思索の深さに
学生の頃から、いつも感銘を受けていました。

ふたりは、お互いに相補いあえる事を直感したのでしょう。
大変な勉強家で、生真面目な常識人のインフェルト。
浮世離れした哲学者のようなアインシュタイン。
いいコンビですね(^o^)。

当時の世界最高の物理学者達と議論することもできました。
注 (2)
彼自身も、論文をいくつも書くことが出来ました。
注 (3)

、、、

しかし、楽しい日々は永くは続きませんでした。

彼が奨学金を受けられる期間の終了の日が、迫って来たのです。
インフェルトがアメリカに来ることが出来、
 そして彼がアインシュタインの弟子になることができたのも、
「その奨学金があればこそ」なのでした。
注(4)

ドイツではナチスが台頭し、ユダヤ人に対する弾圧は激しくなるばかりで、
ヒトラーに狙われているポーランドに帰る事は、もはや不可能な事態です。
注(5)

アインシュタインは、「私が君の面倒を見てもいいんだよ」
と、信じられないような親切な事まで言ってくれたりしますが、
非常に多くのユダヤ人をサポートしているアインシュタインに、
弟子である自分の生活の事までお願いする事は、とても出来ません。

、、、

インフェルトは悩みました。

、、、

何日も悩み抜いた末、ある日、とてもいい考えが彼の脳裏にひらめきました。

それは、物理学の入門書を書き、アインシュタインに見てもらって、
アインシュタインのアイデアを取り入れ、
共著として売りだそうというのです。
注 (6)

練りに練った計画を、アインシュタインに打ち明ける日が来ました。
ところが、アインシュタインに話そうとすると、
急に物が言えなくなってしまったのです。

「、、、どうも申し上げにくいのですが、、、誤解なさらないでください、、、」

アインシュタインは呆れ、そしてじれったくなり、ついには
「インフェルト君、後生ですから思い切って話して下さい。」と、言うのでした。
そこで、インフェルトは勇気を振るって自分の言いたいこ とを
あれこれ右往左往しながら、やっとの思いで述べました。
そして最後に
「多くの偉大な科学者がすばらしい入門書を書いています。
ファラデイ、マクスウェル、ヘルムホルツ、ボルツマン等が書いた本は、
今でも、とても刺激的です。」と、しめくくりました。

アインシュタインは、小首をかしげ、少し考えた後
「それは、素晴らしいアイデアです。それなら私も協力できるでしょう。」
と、言ってくれました。
インフェルトは緊張しながらも、
内心、飛び上がるほど嬉しかったのは言うまでもありません。

この計画は、もちろん
アインシュタインの「知名度」を利用する事の宣伝効果を
最大限見込んでの計画であることは、言うまでもありません。
それは当然、アインシュタインも、理解しています。
インフェルトひとりで、どんなにすばらしい本を書いたとしても、
この際は、売れなければ、なんの意味もないのです。
ですから、アインシュタインの協力が、どうしても必要なのでした。        

インフェルトは、すぐに執筆にとりかかりました。

インフェルトは寝る暇も惜しんで書きました。
ある程度原稿がたまると、アインシュタインの所へ持って行き、
二人で色々議論し、アインシュタインのアイデアも取り入れて
更に書き直す。これの繰り返しです。

この本を執筆中も、
インフェルトは物理学の研究を怠ることはありませんでした。
彼が書きためた原稿をアインシュタインと検討する日でも、
原稿の読み合わせが終われば、二人は再び物理学の議論に入るのでした。
アインシュタインの研究方法は、
色々な人との議論によって研究を深化させようという独特の手法です。
ですから、その議論は、まさに真剣勝負なのです。
注 (7)

、、、

数ヶ月の後、ようやく本が出来上がりました。
数ある物理学入門書の中でも、きわめてユニークな本です。
それは、物理学を歴史的に追って行くような本ではありません。
非常に簡単な実験の説明から始まります。
実験を見て、それをどのように解釈すればよいのか
プロの学者でも感心するような深い考察をするので感銘を受けます。
そして、どんどん思考を深めて相対論、量子論にまで考察が及びます。
それも、数式を一切使わずに。

話を持ち込んだ、サイモン&シャスター出版社の社長、サイモン氏は
本の内容にはまるで無頓着でしたが、
超有名人のアインシュタインが書いた本だと言うことだけで、全く満足していました。
、、、実際は、インフェルトが書いたんですけどね (^_^;)
この本に限らず、どんな本であっても、サイモン氏にとって、出版とは
「本がどれだけ売れて儲かるか」と言うビジネスだけが興味の対象なのでした。
インフェルトは、この全くアメリカンな商売人社長に呆れて笑ってしまいましたが
社長とインフェルトは、これを機に、とても良い友人となりました。
インフェルトだって、いままで述べたように、非常に苦労人ですからね。
なにか通じるものがあったのでしょう。


左シャスター氏、右サイモン氏

サイモン&シャスター社は今では世界の最王手出版社の一つに成長しています。
飛び出す絵本が、日本で今、大ブレイク中ですね。
(余談ですが、「ヨーソーベイン」で有名な歌手、カーリーサイモンはサイモン氏の娘です)
カーリーサイモン


1938年 9月、めでたく出版のはこびとなりました。
題名は「THE EVOLUTION OF PHYSICS」です。
物理学の発展、といった意味でしょうか。
http://www.amazon.ca/Evolution-Physics-Albert-Einstein/dp/0671201565
       
、、、

なんとその本は、全米のベストセラーになりました。

、、、

世界中で売れました。

日本でも岩波新書になっています。訳は石原純
注 (8)
「物理学はいかに創られたか」という本です。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4004000149/qid=1102182936/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/249-0875722-6409941

(物理学者の小柴昌俊氏は、中学生の時、不幸にも小児麻痺に冒されてしまった。
 中学校の担任であった金子英夫先生が、 入院している彼に、
 この 「物理学はいかに創られたか」を 差し入れてくれた。
 金子先生は、小柴少年が理科にたいへん興味を持っている事を、
 よく知っていたのですね。  小柴少年はこの本を読んで大感激し、
  それがきっかで物理学者になったのだそうです。
 そして後年、ノーベル賞を取るほどの大学者になりました。
 金子先生は、ほんとうにすばらしい先生ですね。

(同じく物理学者の小林誠氏は、こんな事を言っています。
 「高校は部活動のテニス中心の生活。勉強は好きでなかったが、
  理屈を考えるのが好きな子どもだった。
 物理を選んだきっかけはよく覚えていないが、
 アインシュタインらの書いた「物理学はいかに創られたか」を読んで興味を覚えた。
 地元の名古屋大の素粒子物理学者、坂田昌一さんの活躍を知って
  あこがれも持ち、後に研究室に入った。」)
、、、

こうしてインフェルトは、アメリカでの研究生活を
続けることができる事になったのです。

、、、

インフェルトの青春は、まさしくドラマチックの一言です。
彼の青春を、是非、映画化したいと思っております。

スピルバーグ監督と、お知り合いの方がおられたら、
是非是非、インフェルトの映画を作る事を勧めて下さい。

、、、

この本のヒットで、インフェルトは執筆にも自信を持ち、
のちには、数学者ガロアの伝記も書いております。
「神々の愛でし人」という本です。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4535782369/qid=1110192884/sr=1-5/ref=sr_1_10_5/250-0345303-9427422

インフェルトの得意分野は群論(ムズカシイ)なので、
群論の創始者、ガロアの本を書くには、まさに、うってつけですね。
(私は、ガロアの数学には全く歯が立たない。 だれか教えてくデー、、、(^o^)/)

、、、

アインシュタインは、晩年を、平和運動に捧げました。

アインシュタイン亡き後、
インフェルトはその後を継ぎ、世界の平和のため、多大な貢献をしました。

    ラッセル、アインシュタイン宣言


なお、非常にくだらない事で自慢するのも、なんなんですが、、
「wikipedia」の「レオポルト・インフェルト」の項目を、最初に作ったのは私です(自慢~~)。
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%88&diff=64653387&oldid=5853519


   
   
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