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8、ピタゴラスも最初の哲学者であった。

 

 ピタゴラスは、おそらくみなさんの間では三平方の定理の発見者として有名でしょう。

 確かに、現代的視点から言えば、ピュタゴラス派の人々は数学研究者だったと言えるでしょう。

 しかし、ことは単純ではないのです。彼らは数学研究者であると同時に音楽研究者で天文学者でもあり、体育理論や食事と栄養の研究もしながら、魂の不死を真剣に求めたカルト教団でもありました。

 ここで、とまどった方々のために、私たちはピュタゴラス教団以前の二つの宗教運動について学ばなければなりません。その二つとはデュオニュソス教団とオルフェウス教団です。

 デュオニュソス教団は、葡萄酒の神デュオニュソスの信仰です。デュオニュソスは巨神ティターン族によって殺されて食べられてしまいますが、食い残された心臓から復活したと言う神話を持っています。これにならって、デォオニュソス信仰者たちは、葡萄酒をがぶ飲みに乱痴気騒ぎを繰り広げ、酩酊してぶっ倒れて、トランス状態に興じたのです。このような騒ぎを彼らはデュオニュソスの死と再生の再現だと考えており、自分自身の魂の再生だと信じていました。酒を浴びるように飲み、半狂乱になってデュオニュソスの名を叫びながら失神して果てることが個人を越えて神と合一すること、すなわち魂の不死に至る道だと信じたのです。

 オルフェウス教団はデュオニソス教団に強く影響されています。しかし、ずっと洗練されていて、酒の席の乱痴気騒ぎではなく音楽の感動によって魂の不死を得ようとしました。いずれも非日常的なエクスタシア(陶酔)で神との合一を求めている点では同じものです。

 オルフェウス教団は、魂は不死であると考えます。魂のことをギリシャ語でプシュケーと言います。もともとは気息とか呼吸と訳すべきもので、生きている間、人は呼吸をしていることから転じた言葉です。

 そして、罪と汚れから清められない魂は「運命の輪」によって肉体に閉じこめられていると考えます。「運命の輪」から逃れて魂を浄化するためには、戒律を守り禁欲的な生活を送り、ディオニュソス神の秘密の儀式を行わなければなりません。このような生活をオルフェウス的生活と言います。

 ピュタゴラス教団は、この二教団の流れの上にあります。

 ディオゲネス・ラウルティオスによれば、ピュタゴラスBC570 BC497はイタリアのサモス島の人で、エジプトなどで学んだ後、クロトンにうつり、そこをよく治めたと伝えられます。

 ピュタゴラスは当時から非常に大きな名声を得ており、学問に長け、人柄も非常に穏やかだったと伝えられます。彼は『教育論』『政治論』『自然論』の三冊の書物を書きましたが、それらを自分の死後娘に託して世に出しませんでした。

 ピュタゴラスは自分を慕って集まった弟子たちを“ピュタゴラスの徒”と“ピュタゴラス主義者”に分けて教えました。前者は自分の後継者として定め、戒律を守って財産を一つにしてコミュニティを作らせました。彼は、このような弟子たちの生活をピュタゴラス的生活と名付けました。後者は、前者から教えを請う者たちで、各自の生活を維持したまま学んでいました。

 ピュタゴラスの関心の多くは数学に割かれており、幾何学や音階について深い研究を行いました。また医学や体育にも深い考察と実践がありました。しかし、それは現代人のように数学自体に関心があったわけではなく、古代ギリシャのテーマであるアルケーの探求の一環として行われていました。

 すなわち、ピュタゴラスはアルケーを数と考えていたのです。

 ピュタゴラスは音階の研究を通して、音階が簡単な数的比例関係で表されることを発見し、万物が数の網に包まれていることを確信しました。

 ディオゲネス・ラエルティオスの伝聞によれば、ピュタゴラスは“1”を万物の根元とし、そこから不定の“2”が生じ、“1”と“2”によって全ての数が生まれると考えていました。そして数から点が、点から線が、線から面が、面から立体が、立体から感覚される物体が生じると説明しています。

 これはちょうど、みなさんが中学生の時に学んだ幾何学と同じ発想です。数学を通してピュタゴラスの理解の仕方は私たちを今現在も支配しているのです。

 ピュタゴラスは更に、物体の構成要素は“土”“水”“火”“空気”の四つだと考え、この四つの構成要素が相互に転換しあって他のあらゆるものが作られているとします。

 私たちを取り囲んでいる宇宙をコスモスと呼んだのはピュタゴラスが最初だと伝えられています。コスモスとはギリシャ語で秩序を表す言葉です。ピュタゴラスは、宇宙は数量的な秩序で貫かれ、美しく調和していると考えました。この調和をハルモニアと言います。

 ディオゲネス・ラウルティオスの伝聞に寄れば、ピュタゴラス自身は、地球は球体で、宇宙自身も球状に地球を取り囲んでいると考えていました。やがて数学研究に長けたピュタゴラス学派の人々は天体運動を観測して計算し、地動説にたどり着きます。コペルニクスが地動説を再発見してヨーロッパ人に紹介するのは16世紀のことですから、ピュタゴラス学派の人々はヨーロッパ人に2000年も先んじていたことになります。しかし、万物の根元が数であり、世界は数量的法則性に貫かれ、ハルモニア(調和)に満ちていると確信しているピュタゴラス学派の人々にとって、地球の方が動いているという地動説も計算結果からして少しも不思議なことではありませんでした。

 ピュタゴラスは、魂についても真剣に考えました。デォゲネス・ラエルティオスの伝聞では、ピュタゴラスは、人間の魂を“知性”“理性”“感情”の三部分に分けることが出来ると考えていました。このうち知性と感情は他の動物にも見られるもので、理性は人間だけが備わっているとしました。ピュタゴラスは魂を実体として捕らえており、それは上半身に宿っていると考えていました。魂は血液によって養われているとし、血管が魂を肉体に繋ぎ止めていると言うのです。

 私たちは魂とか心が肉体から離れた独自の存在で在るかのような言葉遣いをしてしまいます。これは17世紀のデカルト以来、私たちに定着した考え方です。しかし、魂について最初に思索したピュタゴラスにおいて魂は普通、肉体と関わって存在すると理解されていたのです。

 では、魂がどうして肉体と独立して成り立つと考えられるようになったかと言うと、これもピュタゴラスに頼ることになります。

 ピュタゴラスによれば、肉体は魂の牢獄であり墓場なのです。魂と肉体の関係についてピュタゴラスは、この世の汚れた生活によって魂が肉体に縛り付けられているのだと考えていました。これはオルフェウス教の理解の仕方をそのまま受け継いでいます。

 魂自体は不死で永遠なので、汚れさえなければそれ自体で閑かに落ち着くことができます。つまり肉体を離れることが出来ます。そして肉体を離れた清浄な魂はヘルメス神によって最高の高みに導かれていくのです。

 前述したピュタゴラス的生活も、数学や音楽や体育などの学問的研究も、このような神秘的エクスタシーを体験することが目的なのです。だからピュタゴラス教団の人々は、今で言う数学者や音楽家ではなく、もっと神秘的な宗教教団の側面が非常に強かったと考えられています。

 さて、このようなピュタゴラスとその教団の在り方について勉強すると、ややもすれば私たちは背筋が寒くなってしまいます。しかしピュタゴラスをどう評価するかで、私たちの思想や文明の評価ががらりと変わってしまいかねないのです。ですから臆せず立ち向かうことにしましょう。

 それというのも、現代人への影響を考えると、ピタゴラス教団は先に学んだミレトス学派以上にとんでもなく重要なのです。

 まず、ミレトス学派のように“水”や“空気”のような目に見える要素でアルケーを説明するのではなく、数と言う抽象的な観念でアルケーを説明したところが重要です。これによって私たちの関心がこの世界の個々の要素ではなく、その向こうにある目に見えない本質に向かうようになりました。つまりピュタゴラスは、感覚で把握出来る“現象”と理性でしか捕らえられない“本質”を区別して理解する道を示したのです。

 また、このような現象と本質の区別はプラトンのイデア説を用意し、イデア説に基礎をおいたヨーロッパの近代思想を支配し続けています。例えばデカルトの心身二元論がそうです。魂とか、理性とか、心とか、肉体を離れた何かが人間の本性であるかのような説明は、全てピュタゴラスの魂についての見解のヴァリエーションに過ぎません。ところが、 19世紀以降、ヨーロッパ文化の影響が世界中に及び、私たちはヨーロッパ的な観念無しにものを考えられなくなってしまっています。ですから、ピュタゴラス的な考え方は、ヨーロッパどころか現代の私たちの思考まで根深いところで支配しているのです。

 例えば、現代社会の金科玉条となっている人権思想は、“人間は理性的である”と言う思いこみを根拠にしています。しかし、理性がピュタゴラスの魂についての見解を根拠にしている以上、もしピュタゴラスがオカルティックな神秘思想なら、近代合理主義や人権思想などもオカルトだと言うことになってしまいます。はるか古代のピュタゴラスは現代社会の基本になっている思想をも動揺させてしまう影響力を未だに持ち続けています。

 近代以降の思想だけ勉強した人は、近代は古代・中世的な神秘主義や不合理を排除した合理主義で貫かれると思いがちです。しかし、近現代の思想とても思想史の流れにある以上、古代思想の掌で踊っているだけなのです。近現代が古代・中世を乗り越えたとか、古代に比べて発展していると考えるのは、実は自惚れ以外の何者でもありません。

 それでは、ピュタゴラスについてはこのくらいにして、次回はエレア学派の人々について学ぼうと思います。


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