藤原 洋二先生
 
この先生のことは、お話することが多くて長くなりそうです。
だんだん追加していく予定ですから、いっぺん見た後もまた見に来てください。

矢巾町で昭和42年に開業され、平成16年6月22日にご自分の医院で診療中の
昼の休み時間に倒れられて、3時すぎに亡くなられるまで近傍の人々に慕われ続け、
地域の医療に貢献された貴重なお医者さまでした。

高校時代は水泳部で、あの昔のプールでただ一人で黙々と泳いでいる姿は今も目に浮かびます。
あのターザンのような胸板、体型 晩年は自分でも懐かしく思い起こしておられたようです。
  『俺ぇ、弱ってしまってさぁ..』
数年前、最初の病魔に見舞われ回復されたころからの口癖でした。

さて先生の多方面にわたる趣味のどれ一つをとっても、プロ顔負けの造詣の深さに感じ入るばかりです。
1)スポーツ関係
  夏場の水泳は選手なみの実力は当然でした。
  ゴルフはLB会会員の中では、1,2番目に早くから始められてハンデもシングル直前まで行かれました。
  冬場のスキー、スケートも選手なみの実力でした。
  
  ゴルフ スキー には奥様や二人のお嬢さんがたと同行することも多く、コースに、ゲレンデに
  そろいの衣装が大勢の目を引きつけることもしばしばでした。

  LB会のゴルフは7月のコンペに参加のご返事を戴いていたのが、急遽黙祷つきの追悼コンペに替わりました。

2)自動車関係
  世界中の車についての蘊蓄は大変なもので、出入りの整備工場に対しての注文が微に入り細を極め、
  工場主がお手上げの状態になってしまって、
    『そんじゃぁさ、夜、工場かしてくれ』と言って自分で整備したそうです。
  この工場主が私の知り合いで、「あの先生には参ったょう。」とぼやいていました。
    『イタリア語と英語の辞書置いてさぁ、苦労したんともな..』と楽しそうに話したおられました。

3)芸術関係
  絵のこと
    岩手山の油絵を貰う時に
      Y.Fujiwara  とサインしてあったので 「このYさぁ。Tになおして」と頼んだら、わっがねぇと断られましたが、
    『親父には、人に渡してもいいまずまずの出来だって言われたょ』と言ってました。
    父上は画家芸術家の藤原徳太郎先生です。
  音楽のこと
    高校を卒業する前か後かとにかくその頃、カーク.ダグラスとドリス.デイ主演の映画『情熱の協奏曲』に魅せられて、
    相当な無理をしてトランペットを手に入れ、吹奏を始められました。
    大学のバンドや当時大流行のダンスホールで演奏しておられたのを目にしたことがあります。
    後年診療所で夜、素晴らしい音色を聞かせてもらったことがあります。
    
    なお、先生の兄上、今もお元気な哲郎先生はクラシックギターの名手で、私の仲間の川守田まっこ先生が、哲郎先生の楽譜を
    くすねて来ては「弾いてみろ」というので往生しました。
      それらの楽譜は 双頭の鷲のもとに  や 葬送行進曲 など、大変な難度のものばかりでしたから..。
  彫刻など
    模型を作ることがありました。
    なにしろ、材木や鉄板、ただの石塊などから整形し、磨き上げ、塗装するのですから。
    そうして作ったレーシングカーや、飛行機、バイクなどなど、また気が向けばイースター島の石像 (アモイだっけか)
    車庫裏の立ち枯れの木に仏像の顔面....。  周りは美術品だらけでした。