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私とソフトテニス 大先輩に学びわれわれも頑張ろう

よんころに、創刊号当初より掲載されている
「私とソフトテニス−大先輩に学び我々もがんばろう−」
です。よんころの なかでもこれを楽しみにしている方々も多いようです。

私とソフトテニス 大先輩に学びわれわれも頑張ろう (敬称略)
第1号 近 江 雅 喜 星   和 彦 佐々木 公子 小 原 智 子
第2号 菅 野 勝 郎 鈴 木 博 行 植 村 とし子 佐 藤 きみ子
第3号 山 田 雅 宏 玉 沢 百 香
第4号 遠 藤 智 之 高 橋 久 子
第5号 伊 東 久美子
第6号 菊 池 栄 光 君 塚 圭 − 菊 地 信 子
第7号 川 村 幸 男 東   聡 子
第8号 阿 部 正 実 平 野 法 子
第9号
第10号

私とソフトテニスNo.1 
一大先輩に学び我々もがんばろう―
岩手県の高校時代にソフトテニスに青春をぶっつけ、その後学生そして社会人となっても仕事や家庭にいそしみながらソフトテニスの第一線で活躍されている方々を紹介していきます。
 第1回の今回は4人です。
 近江雅喜選手は、高田高校から明治大学に進み、本文にもある通り大学4年の時東日本選手権大会(一般の部)で、堂々の3位に入賞され、岩手に戻って一般となってからは、近江・日野組、近江・菅野組、近江・鈴木組等ペアを変えながらも常に県チャンピオンの座にすわり、東北チャンピオンも数多く取っております。現在も尚、成年の部第一線で活躍中です。

  練習は裏切らない―好きと仲間−

   陸前高田市 近 江 雅 喜(ひかみの園)
 軟式テニスを始めてからすでに24年になる。1/4世紀にも渡り続けているのだが、全て昨日のことのように思い出すことができる。ここまで続けてこれたのは「好き」であったがため、と思うのだが、教えてくれる入に巡り会い、一緒にやる仲間がいて、結局は入と入との関わり合いの中にその本当のところがあったように思う。 昔話になるが、中学の時負けたことは生涯忘れられない思い出である。当時県下で、いや前年度は全国大会3位であったのだから、日本でも有数の指導者に恵まれ、県大会3連覇、全国大会上位入賞を目指すはずだったのが、まさかの地区予選敗退であった。それでも地元での開催のため、県大会には割増出場できるはずであり、次のチャンスにと期するものがあった。ところが、ある日突然出場できないということになった。軟式テニスは地元開催でもその出場枠に割増のない種目のひとっという但書があったのだという。校内では女子バレー部が同じように出場できるはずであった。彼女らは泣きじゃくり執拗に懇願していた。私はといえば泣くこともできず、ひたすら負けたことを悔いていた。新聞でも騒がれたのであるが、結局出場の機会は訪れなかった。
 県大会当日、優勝旗を返しにだけ行った。惨めな一日であった。 しかしこのとてつもなく大きな口惜しさがその後のテニスに向けるエネルギーの原点であったと思う。
 高校のクラブは学園広場とでも云うのだろうか、和気あいあいとし、男女合同で合宿を行ない、夜には花火をしたり、そんな雰囲気であった。自分自身の目標からすると焦りを感じないわけではなかったが、それなりに楽しいものではあった。しかし2年の高総体以降少しずつ雰囲気が変わってきた。最終的に残ったメンバーは6入、目指すはインターハイ、まさに心をひとつにしての挑戦であった。しかし状況は厳しかった。何せ3年間に男女で6人の顧問の先生とつき合うことになったのだが、テニスの経験者は1人、その上学校は外部からの指導者を拒否、効果的な練習方法も知らず、対外試合など望むべくもなかった。 しかしインターハイは、我々6入からやる気と創意工夫を導き出すに十分な魅力を持っていた。満を持しての高総体であったが、結果は2回戦で敗退、大将戦をはずされ3番勝負での負けであった。勝負に「〜たら」「〜なら」はないのであるが、卒業しても「あの一球がなあ」という話をよくした。1番手、カウントはファイナルの2−2、セカンドレシーブがミドルにオンライン、しかし相手後衛がバックで強振したボールもまたオンライン。リードしながら雨で中断した3番勝負は、再開後すっかり流れが変わっていた。
 惨めな負けではあったが、6人で歩んだそこまでのプロセスには十分満足できるものがあった。
 ところで、この仲間以外に私のテニスに少なからず影響を与えた入物が高校時代にいた。実は6入の顧問のうちの1入なのだが、この先生、学校ではかなりの入気者であった。愛する先生ゆえにあえて話すが、まともじゃなかった。彼は時々ラケットを肩に掛け、ももひきのようなジャージを履いてコートに来る。そしていきなり「近江、勝負だ」と云う。インターハイ2年連続出場名門中央大学軟式テニス部に一学期だけ籍を置いたという強者ではあったが、いかんせん海外での放浪生活が長かったためか、もはやその面影はない。返り討ちにするのであるが、吉本喜劇よろしく「今日はこれ位でかんべんしてやる」といった感じで帰っていく。ではそんなまともじゃない人物のどこに影響を受けたかというと、そのプレーが実に新鮮であり、全く新しい物を見る思いであった。ひとつのカルチャーショックであった。それから少しずつ私のプレーも変わっていき、そして大学でのテニスというものも意識し始めたのである。(ちなみにこの先生、宮古高の西川という)
 大学でもテニスを続けるつもりでいたが、初め入部を断わられる。一般学生は(つまり体育会推薦でないと)すぐやめてしまうというのがその理由であった。県内OBの力を借りて入部したのはもう秋だったが、その当時は逃げることばかり考えていた。
 3年生までは泣かず飛ばずで、何回となくやめることも考えたが未練が強かった。4年の時はもう必死であった。東日本学生が北上で開かれるということで、故郷に錦を飾りたいという気持ちもあって、毎日6時間も練習した。夜9時には就寝、朝の5時半にはボールを打っていた。いい迷惑だったのが同室の後輩と2年生だった私のペ、テレビも見せられず、朝は早くから起こされる。その結果私のペアは、ある試合の帰り、過労による急性胃炎のため救急車で運ばれたことがある。
 北上での大会の前に東日本一般選手権があった。それまでは調子が上がらず、あまりの情けなさに練習中に泣いたこともあった。しかしこの大会は不思議と勝ち進み3位という夢のような成績を残すことができた。結局北上では勝つことができなかったのであるが、東日本3位という成績は、私にとって「練習は裏切らない」という言葉の証明に十分成り得るものであり、4年間の大学生活を最後に満足たらしめるものであった。
 以来14年、「練習は裏切らない」という言葉を座右の銘としてテニスを続けている。もっとも練習しても裏切られることは度々ある。では何故続けているかと云えば「好きだから」としか答えようがない。しかし好きだけで続けることはできない。続けるためには仲間が必要である。私の場合は実にこの仲間に恵まれており、勝ったと云ってははしゃいで飲んで、負けたと云っては飲んではしゃぎ、楽しい一時を持つことができる。とかくストレスの多い世の中にあって、こうした時間と仲間を持てることはかなり貴重なことかもしれない。
 さて、まだまだ若いとは思っていたものの、私もすでに成年の部である。もちろんプレーはまだまだ続けるつもりだが、体力は衰え、プレーも自分の理想とするイメージから遠のきつつある。しかし年の功というのだろうか、逆にイメージを言葉で表現することは少しずつ上達している。そこで、もし次代が必要としてくれるのであれば、新たに身についた技、つまり言葉で表現することで少しでも長くテニスに携わっていきたいと思っている

 星和彦選手は、一関商工高校から日本大学に進み本文にもある通り、日大で主将を務め数々の大会で日本のチャンピオンとなっております。卒業後岩手に戻り、星・石川組、星・内藤組として一般男子の部で県を取り、又、東北NECの大将ペアとして、実業団大会でも活躍しております。若手のリーダーとして、これかもず一っと県ソフトテニス界をリードしていく選手です。

夢・努力・感動
     一関市 星   和 彦(東北NEC)
 私は昭和57年4月に一関商工高等学校へ入学し、60年3月に卒業。同年4月に伝統ある日本大学文理学部へ入学し、軟式庭球部へ入部しました。
 高校時代の戦績は、県大会で優勝、東北大会で3位、インターハイ2回出場という戦績でした。が、大学で庭球部に入った同級生達は、東北大会、九州大会の優勝者や、インターハイベスト16本、8本や3位、団体戦で優勝など私より戦績が上位の人達ばかりで非常に驚きました。入学してからは、1年生から4年生まで約50人が一緒に生活する「合宿所」生活がはじまりました。高校を卒業するまで自宅から離れた生活をした事がなかったので不安だらけの日々でしたが、そんな最中でもテニスに対する思いだけは強く、自分の力がどの程度通用するのか早く試してみたいという気持ちが心を占めていました。
 合宿所生活は、1・2年生は5時30分起床で合宿所のすべての掃除と食事の用意を自分達の手でやるという生活で、今までの生活環境とは全く異なり、テニス以外の面でも勉強することが多くありました。今こうしていると、あの何もかもが初めての体験だった頃をどのように生活していたのかと思うと何も思い出せず、ただただ夢中に過ごしたという思いだけがあります。
 1年生だからこそ早く良い結果を出したいというはやる気持ちと、生活環境の変化への切り替えのままならぬ日常生活に体験する現実のギャップに悩み、精神的疲労から円形脱毛症にかかり、その一ヵ月後にはコートで練習中に吐き気が止まらず血まで吐き、一人で歩けない状態になり先輩に担がれて病院へ行き、その結果即刻入院。一週間の入院となりました。その時自分はもうついていけないのではと思い眠れない夜を過ごしたりもしましたが、一方では、まだ1年生だしなんとか「日本一になりたい」という気持ちが沸き上がってもきました。
 そしてその「日本一」は日に日に強く高まり執拗に自分を支配しはじめていました。
 私は退院後も帰省せず全日本学生選手権に出場したいと望み、体力を回復させ身体を強化する為にキャベツをすった物などの食事の工夫をして自分なりの努力をしました。運動と食事の関係もこの時に学びました。その甲斐あって体力体調は良好になり、団休戦は無理でしたが、個人戦ではなんとか一勝と思って戦い、チーム数約600の中でベスト64本に入り、これでなんとかやっていけそうだと安堵しました。
 しかし入院の為、練習量が減り他の人達との差がだんだん開いてきているのが分かってきました。そしてそれが早くうまくなりたい!強くなりたい!という焦りの気持ちに変わり、それが災いして自分のフォームが分からなくなり、すっかりバラバラな状態となってしまいました。何十球、何百球打ってもどうにもならず、いら立ちと焦りの中にもがきました。これまでにも何度も壁にぶつかってはきましが、それらの壁に比べれば何十倍も威圧のある壁でした。悩み通したその挙句に自分はこの壁を越える為にあらゆるスポーツに自分の視点を向けて見ることにしたのです。
 つまりテニス以外のところでその壁を破る事を考えたのです。大学の実技授業にあるバレーボールや、バドミントン、陸上、柔道、又アルバイトをしたゴルフなどを通していろいろいな角度から研究をしてみました。
 そしてそこで私はすべてに共通する点をいくつか発見したのでした。例えば、バックスイングの自然性から生み出される柔軟なグランドストロークなどその発見の一つでした。私はグランドストロークによって遠心力を増し、球心力に重みと鋭さがプラスされることが分かったのです。加えてフットワークの善し悪しは打球の生死に関わるものであるという基本的な事を改めて理論と身体で会得することもできました。そしてどのスポーツの試合でも心がしめつけられる緊張や感動があり、そこには瞬間ではあるが本人にとっては果てしなく長いドラマがあり、その中でそれぞれのものが生きて戦って、やがていずれは静かに一瞬のうちに終止符が打たれるものであることを知ったのです。私はそれを自分のテニスにとり入れました。私は自分のどこに問題点があったのかチェックをしました。又、メンタル的な面でも呼吸法などを用いて練習をしました。日本一をしっかり目標におき、より強く意識するよう自己暗示をかけるようにしました。
 だからといってすぐにうまくなるという訳では勿論ありません。後輩が試合に出て自分は応援に回るということもしばしばありました。3年生になってから勝てるようになり、リーグ戦でも活躍することができるまでになりましたが、全日本学生選手権では二回戦負け、同級生では準優勝した者もいました。そして4年生、つまり最上級生になり、新主将はインカレで2位になった者が選ばれると思っていた折、監督が私の名を呼んだ時には自分の耳を疑いました。始めは本当に自分がチームの中心として勝っていけるのかと思いましたが、その動揺が逆にこの機会は日本一になる為のチャンスなのだという闘志に変わり、今まで以上に練習を重ねる日々が続き、その結果、5年ぶりに関東リーグ全勝優勝、そして全日本王座決定戦でついに夢をこの手で実現させたのでした。夢を果たした感動は、これは語ることはできません。中学、高校、大学とテニスをやってきましたが、それぞれの時代によって夢を描きそれを追いつつ、最後には最終目標の達成は出会った人々の絆によって支えられたものであると感じております。
 最後に私の高校時代の目標は「全国大会へ行きたい」のぼんやりとした目標でその通りインターハイにはいきましたが、一勝もすることができませんでした。しかし、大学へ入り「日本一」という大きな目標をかかげたおかげで達成することができたし、自分自身も大きくなり、又、全国にたくさんの友達もでき、今となっては私の宝になっています。後輩諸君も目標を大きく持って平成11年の岩手インターハイに向けてがんばって下さい。

悩み・好き・アジア大会優勝への道

      一関市 佐々木 公 子(一関高専)
 コーチをしていた父について、中学校のテニスコートに行ったのが小学6年生の時でした。デコボコのコートで中学生が楽しそうにボールを追うのを眺めていると、「1人足りない。前に立っているだけでいいからやってみろ。」と言われ、初めてテニスラケットを握りました。すごく重くて振り廻せず、空振りばかりした事を覚えています。
 中学では迷わずテニスクラブに入りました。虚弱体質の私でも楽しくクラプ活動が出来、県体出場・県南中学個人戦優勝と、少々鼻高々で高校に人学。すぐレギュラー、高総体団体決勝進出と晴れがましいスタートを切りました。
 しかし、その頃から少しずつストレスがたまり出し、ついに爆発してしまいました。中学には無かった上下関係、同学年にボールを拾ってもらう申し訳なさ・辛さ、極度の貧血で練習も半分で打ち切ってもらう引け目、先輩に対する疑問・不満、パートナーに対する不信感等々、傍らから見れば、エリートコースを歩んで何の不満が、贅沢な。って感じでしたでしょうね。今考えれば、自己中心的な考え方だったなと分析が出来るのですが…当時の私にすれば、いろんな感情がごっちゃになり、『やめれば楽になる』それしか結論が出ませんでした。
 その事に対し、先輩に「もうテニス出来ないんだよ」の一言。妙に心に残りました。スッキリしたと思ったはすが、2〜3日たつと心にポッカリ穴があいた様で、居ても立ってもいられない毎日が続きました。身勝手は重々承知の上で、恥も外聞も無く復帰させていただきました。あの時やめていれば、受け人れてもらえなければ、今の自分は無い。良い経験になりました。『同じ過ちは繰り返すまい。私はテニスが好きなんだ。』 クラブを続ける上で何も悩まない人はいないと思います。対人関係・技術面等々、傍らから見ればつまらない事でも本人にすれば重大事と見える事が多々あるものです。このような時には悩んで大いに結構、相談するも良し、あたってみるも良し。そして「自分が一番何をしたいのか」を素直な気持ちで考えてみる事が大切でしょう。
 それ以降、新人戦・高総体個人戦優勝、新人戦のカップは学校が火災で全焼し返さずじまいというハプニングもありました。短大時代は東北総体第3位止まり、職場に人り25年目、その間、結婚・出産・子育て、いろんな事が有りました。身体も健康になりました。
 一般になってのパートナーは数えきれません。随分恵まれたと思います。国体には12回出場、成績で自慢になるのは東北選手権6連覇かなと思ってしまったら、一昨年全日本レディース選手権大会すみれブロック(38才未満)優勝、プレッシャーも何もなく、軽い気持ちで出ましたら、あれよあれよの優勝。長く続けていて良かったなあと思ってましたら、昨年、アジア壮年ソフトテニス大会の日本代表メンバーに選抜され、不安を感じながらも世界のテニスが直接見れるうれしさで韓国まで行って来ました。団体・個人優勝という思いがけない賞を手にして、年かいもなく久々に泣いてしまいました。
 試合をする時は誰でも緊張します。相手がどうのこうのと言う事よりも、まず自分が平常状態でやれるよう自分自身に勝つ事。その為には、精神力・体力・技術等々日頃の練習、毎日毎日の一つ一つの積み重ねが一番大切な事ではないでしょうか。隣の芝生は良く見えると言いますが、結果だけを見て、よく華やかさに憧れますが、その栄光の陰で、それぞれがどれ程ひたむきに努力している事か。その過程が一番人切だと思います。また、人との出合いを大切にする事。今、この時は、一生のうちのこの瞬間だけ。パートナー・対戦相手・審判・応援する人等々、それぞれの立場・目的で事に当たり、終了後の「ありがとうございました。」の一言。たった一度の、この出合いを大切にしたいものです。
 テニスが好き、まわりの仲間が好き。指導者、パートナー、先輩方、後輩達、ライバル達、家族等々、まわりのいろんな方々に支えられ、現在の私があると思います。 世の中、上には上がいっぱいいます。おごり高ぶらず、目標をもって大いに前進しなければ………。
 新ルールに早くなじみ、そして、いつも気楽に、楽しいテニスが、いつまでも出来ればいいですね。

 躍動感ある動き・元気な声・明るい緊張感

  盛岡市 小 原 智 子(主婦・あすかクラブ)
 もう今から20年も前になる高校時代、花巻南高のテニスコートはまわりからソフトボールやハンドボールが飛んでくる、フェンスもなくて狭い2面のものでした。練習はそんなに厳しかった覚えもないのですが、最初20人たった同期生は2年の終わりには3人になっており、自分でもよく最後まで続いたものたというのが実感です。当時の顧問の飯塚興先生からはいつも「お前は欲がない」と言われていましたから、きっとあまり覇気のない高校生たったんたろうと思います。
 今にして思えばてすが、その頃はどちらかと言うと強いボールを打ち合うことに一生懸命で(それはそれで大事なことなんでしょうけれど)、試合の組み立てや勝つための研究のようなものにはあまり頭を使った覚えはありませんね。ですから成績も新人戦の3位が最高で、私たちの先輩や後輩が毎年1チーム出場していたインターハイにも最後まで縁がありませんでした。
 でも、嫌いたった振り回しの練習のおかげもあって頑丈すぎるほどの今の体もできましたし、サーブのフォームもその頃から変わっていないことなどからすると、高校時代の毎日は、今の私のテニスの基礎の部分をいっのまにか作ってくれていたようです。コート整備やランニング、ラケットのガット張りなんかが嫌いな人いませんか?もちろんどんな練習も楽しいことにこしたことはありませんが、テニスコートやラケットと仲良くなれるのは、案外そんな地味に見えることをしっかりとやっている人たったような気がします。
 その後、和洋女子大に進みテニスを続けましたが、ムダのない練習やまねのできないような先輩たちのプレーを見るにつけ、驚くと同時に強い人たちは高校の頃からこんな練習をしているのかと、自分との差も思い知らされました。
 強い学校の練習にはみんな特徴があります。でも共通しているのは、テキパキとした動き、元気な声、明るいけれどいつもある緊張感。そいう中で後輩は先輩たちのプレーからいろんな事を身につけていくのではないでしょうか。
 今、成年の部でプレーする年になって、高校時代や学生の頃より自分なりに少し良くなってきたところがあるとすれば、簡単なミスが当時より減ったこと、そして練習時間が少ない分、実践に近いボールを意識して打つようになったことがあげられます。
 昔はミスをしてもたたガッカリするたけでしたが、今は多少考えるようになり、こっちが良かったかな、次はこうしようと思うことによって、少しずつでも同じミスをしないようになってきたような気がします。
 また、乱打でもボールの深さや高さ、早さに少し気を使って打ち、意識してコースをねらうなどの、試合や相手を想定した練習が前よりできるようになってきたと思います。
 もちろんボールのスピードは年々遅くなっていますし、足も以前にましてドタドタしてきました。ラケットの振り方や面の作り方が、少しずつ頭の中のイメージに近づいてきたためか、「楽しくボールを打つ」という意味では今のほうが以前よりもうまくできるようになったのではないでしょうか。
 結婚・出産があり、しばらくテニスから離れた期間がありました。下の子も大きくなって、久しぶりにラケットを握りボールを打つと、今までとはまた違うテニスの楽しさのようなものが感じられました。気楽な気持ちもあつたためか、ボールを打ち、コートを走る事がとても新鮮で、その時々の年令なりに楽しむことのできるソフトテニスの素晴らしさを改めて実感しました。若い高校生や学生の方たちも、いつかきっとそんな気持ちになる頃が来ると思いますし、せっかく始められたテニスをこれからもぜひ長い間楽しんでいたたきたいと思います。

     マッチポイントのために

        陸前高田市 菅 野 勝 郎(丸桝木材)
 昭和45年、東京での長くもあり短くもあった10年間の学生生活を卒業して、陸前高田に戻って来た。ちょうど岩手国体の年である。高校・大学時代の私には、国体やインターハイは無縁のものであったがら、岩手で国体が開催されることすら当時は知らなかった。日本大学に入学し、大学以外に行き場のなかった私を、同じクラスになった高校時代のテニスの知人が、自分の母校のOB会に誘ってくれたのが本格的なテニスの体験の場たった。3年生の時には、巣鴨学園のOB会に移り2年間を過ごした。東京最後の大会に優勝出き、終わり良ければ全て良し、充実した1O年間であった。
 高田に帰っても見慣れた友の顔はなく、行き易い中学高校のコートに足を運ぶ様になったのがきっかけで生徒達との長い付き合いが始まった。そんな中、30才の時、陸前高田市の協会員も学校を終わって帰って来たメンバーでふくれ上がり、単に人数合わせでなった前衛が国体への道であり、選手生活の第一歩である。大学時代からの指導の経験と、その時までの積み重ねが、前衛らしからぬ前衛を作り上げたのたろう。この頃からは自分のフォームやゲームも撮り始め、素人前衛の猛勉強のキッカケになった。国体・全日本等、全国のトッププレーヤーのゲームを機会あるごとにビデオに収めはしめた。指導のために始めてた事であったが、その時代、その時代の多くの瞬間をとらえた映像が私のよき指導者になっていた。
 これまで県代表として多くの大会に参加させて頂き、何物にも変え難い体験をした。1つでも高校生の皆さんに伝えればと思う。
 『習って真似て慣れろ』
 前衛に転向してからは学ぶ事カf山程あった。基本技術は、大ざっぱにフィーリングで覚えることた。トッププレーヤーのスピード、リズム、手足の運びや方向、面さばき、その本人になり切ってプレーを真似てみることた。一っの動作を身につける為には、今の自分の感覚(動作)を捨てなければならない。習うことは一瞬ではあるが、多くの人達から出来る。しかし、直そう、真似よう、慣れようとすることは不安や焦りそして根気を戦わなければならない。毎日の練習は本来この繰り返しであるべきなのた。目標とするプレーのイメージを焼きつけ、まず基本技術の総レベルをアップしよう。
『ゲーム中の心理』
 劣勢をはね除けるレシーブは、フルスイングが一番。レシーバーはどうしても返そう、取られまい、ポーチされるかも、止められるかも、と考えがちである。また相手前衛も、抜かれる、アタックが来ると考えている。打つ前の弱気はその時既に勝負に負けているのた。レベルが上がれば上がる程、強気で無心でプレー出来なければならない。2割の技術と8割の気力が要求される。
 マッチポイントを取られた時のレシーブは、ロビングは打ちに行かないこと。カウントの優劣から、ロビングを打とうとする時のバックスイングが、相手に読まれ易い。また、ゲームポイント、マッチポイントであるという意識が
過剰になると、手足が萎縮して深く高いボールが打てないものである。
 『シュートボールはボレーの餌食にせよ』
 ラリーはシュートかロブかである。クロスかストレートか、右か左か正面か、その時の状況、流れ、クセ、などで相手の打つコースと球質はわがるものた。わからなくてもいい、わからない者程流れを観察したり、ゲームを組み立てたり、こんな余裕も技術もないものである。守らなければならない雰囲気を感じるまでは、自分のイメージを信じてまずは全てのシュートボールはポーチである。
 『スマッシュは逆クロス』
 ラリーがいっしか前衛をかわしながらロビングの展開になる時がある。後衛の前へ、前へとロブが配球される。こうなると後衛のポイントは期待出来ない。逆クロスで後衛の前に高々と継がれたロビングを自分の足で追いかけて打
つのが前衛でありスマッシュなのた。ベースラインで打てない前衛はスマッシュである。
 『高校生とのゲームから』
 高校生と試合をすると、結果はどうあれゲームにならないことが多い。練習で見る生きたボールも、成る程とうなずけるプレーもゲームになると出てこない。我々は、高校生が相手であるがら特別な意図を持つこともなく気楽にゲームに臨む。しかし、高校生はやはりそうはいかないのかも知れない。対戦相手の顔、ベンチの先生や仲間の気になる視線、そして無意識に浮かんでくる得体の知れない重荷を背負い込んでゲームをしてしまう。また、ゲーム中のある瞬間になると、「かも知れない」の文字がふと浮かんできてプレーの邪魔をする。こうなると練習では打てるボールも打てなくなり、自分達のゲームを忘れてしまう。練習量の少ない我々は、これは止められない、ここは動けない、時には「かも知れない」とゲームの途中から必死になろうとするのたが、その時既に高校生の方がゲームセットになってしまう。我々も高校生も練習中の一球一球は大差ないのた。自分を鍛え抜いていないから下に感じ、相手は自分とは違うと思うから上に見えてしまう。自分の意識と体験が低いから他人が気になるのである。ほんの小さな差を自分で大きくすることはない。上を目指す者は「井の中のカワズ」であってはならない「未知の世界」があってはならない。
 『最初はグー』

 私と3回勝負のジャンケンをしよう。最初はグー、ジャンケンポン。このあとの文章を読む前に私とあと2回ジャンケンをして下さい。あなたは何をどんな順で出しましたか?私は、パーを3回出しました。ジャンケンは、3つしかありません。子供のパーも大人のパーも技術的には何の差も感じません。ですから大人が子供とジャンケンしても必ず勝とは限りません。年の差もこれまでのジャンケンの回数の差も勝負の結果にはあまり影響がないからです。さて、私とのジャンケンの結果はどうでしたか。実は私はパーたけしか使えないのです。グーとチョキは関節を痛めていて曲げられないんです。かりに意図があってパーを3回出し続けたとしても、あなたにとっては同じ事です。あなたがグーチョキパーと出したとしたら、手の故障している私でも1勝1負1分けで負けませんでした。無造作に行ったプレーも、目的をもったプレーも相手にとっては同じ結果になります。そして相手にはその真意はわからないものです。チョキたけでよい相手なのかパーも使った方がいい相手なのかを出来るたけ早く判断分析する目が必要になります。1回目、2回目たけでは続けているという事は感じないでしょう。3回目が終わってはじめて気付くかも知れません。3回もまして4回も続けては出さないと考えるのが通常ですし、続けて出す方は恐いものです。勝負とは、この「恐さ」と勝負なのです。恐さを克服してこそ勝利がありますす。自分では果たせなかったインターハイでの活躍を岩手の皆さんに期待します

プレッシャーからの解放
−これで人生は終わるわけではない−
北上市 鈴 木 博 行(北上中学校)
 私がソフトテニスを始めたのは28年前、中学校1年の時である。プールを建設するということで畑をコートに変える作業からスタートした。2年の冬に当時専大北上高の阿部正実さん(現JR盛岡)が指導にこられ、ボレースマッシュの速さに驚いたものでしたし、目標にもなりました。
 黒北に人学すると、岩手国体(昭和45年)を翌年に控えていることもあり、北上市内にすばらしい指導者(選手)が集中していました。黒北に星信一先生、児玉進先生、黒工に関村則保先生、黒南に飯塚哲先生、北上中に瀬川知良先生、北農に藤原博先生と国体優勝メンバーがすべており、練習を見たり、試合をする機会も多く、いいイメージで練習できたように思う。高校時代のことで今でも鮮明におぼえていることは、2年の夏合宿でのスマッシュの練習です。ベースラインからラケット1本分のところにスマッシュを50本決める練習。合宿練習の半分はスマッシュにあてられ、入れようとすると人らない。汗が目に入り、意識瞭朧とした状態でボールを追いかける。はやく苦しさから解放されたいと考えながらの練習でしたが、その練習を3日続けると、不思議と自信がわき、その後の100本連続ノーミスも短時間でこなすことができた。短期間でも目標をもった練習を集中することによって、自信が生まれることを知り、その後の練習にプラスになった。
 自分から進んでやる練習も必要であるが、課題を与えられて、苦しい練習をやらされることも高校時代に必要たと思う。高校時代に培われた基本が今の自分を支えていると思う。
 3年の高体連では、団体は3位と不本意なものであったが、個人は優勝することができた。
 インターハイの前に奈良県高田商業で合宿してのぞむことになった。東京、埼玉、岡山など全国の強豪が集まった。練習試合を中心とした内容であったが、相手がどれくらい強いのかわからず(こういうときは意外に善戦できるもの)、後衛の千葉稔君は小さい体ながらシュートボールで打ち負けることもなく、対等に戦うことができた。私たちのペァに敗れた高田商のペアはコンクリートのところに2時間程、正座させられていたのを覚えている。相手の監督がらは、インターハイベスト8の力があると言われ、自信をもって徳島に向かったが、おりからの台風の影響で、その便が最終でそれ以後の船は欠航という状況、ゆれるたびに船内のコップや皿がわれる音がおこり、不安な四国行きであった。
 台風のため日程が2日遅れ、その間、ボールも打たずトレーニングもせずという状態で試合にのぞみ、接戦ではあったが3回戦で敗れた。相手後衛の粘り強いロブと前衛のポイントによって先手をとられ、悔いの残る試合となった。それまでの私たちの得点パターンは、相手後衛が打ち負けたボールをボレー、スマッシュしてポイントするというのが多かったが、それたけではインターハイで勝てない。勝負がワンポイントずつ遅れてしまった。
 全国に通用する前衛を目指して、大学に入り、1年のインカレ個人5回戦で優勝した時田・阿部組(愛知学院大)と対戦。後衛の時田選手は速いボールを打つわけではないが、ロブ巧みにまぜ相手前衛に的をしぼらせない技術をもっていた。私がボレーを狙いに行くと、後衛かセンターにロブ、じれてスマッシュを追いかけるとサイドパス。イライラするゲームとなった。
 スマッシュをねらって下がったがサイドを抜かれる。前衛としてどう動けばいいのか迷ってしまった。相手が球の速い後衛であればシュートボール(得意の球)に的をしぼっていきやすいが、そんな悩みをもっていたときに、瀬川先生(当時盛岡三高)に「スマッシュを追って下がったが、相手にシュートボールで攻撃されたときはローボレーで対応すればよい」とのアドバイスをうけ、グ`リップのやわらかい使い方を教わる。その感じがつかめると、苦手たったバックレシーブも返せるようになった。 リラックスして構えることが他の技術にもプラスに働いたし、基本であると思う。新ルールでは、ローボレーの機会は、増えそうである。
 大学時代の課題として、「マッチポイントをどこで何を使って決めるか」というのがあった。必ず勝たなければならないプレッシャーのかかった試合では「自分の責任で負けたら…ミスしたら…」という考えが必ずおこる。そのプレッシャーから解放されたのは、昭和53年の交通事故以後であった。体育教師として、赴任1週間前の出来事であった。テニスはおろか、歩くこともできない片足切断の危機に陥ったのである。しかし、この危機を乗り越えることができたのはテニスを通じて知りえた先輩、同輩、そして黒北の後輩たちであった。
 高総体団体初優勝を果たし病室に優勝旗をもたらしたのである。(良くてもベスト8と予想していた。)夢ではないかと疑ったものでした。事実、翌日の朝日新聞には、男子優勝、大船渡高とあり、やっぱり夢たったかと思った。(その翌日訂正記事) 手術後の経過も順調で2か月後にリハビリを開始できた。病室にバーベル、ダンベルを持ち込み、屋上では松葉杖を片手にセルフテニス。1日中体を動かす日が続いた。病院内でのリハビリたけでなく、近くの岩手公園にも散歩に出かけ、帰り際に近くの食堂で飲んたビールの味は最高。次はテニスで汗をかいた後のおいしいビールをという新たな目標ができた。 事故から1年後に退院でき、テニスもできるようになった。試合をしても負けることにそれまでのプレッシャーがかからなくなった試合に負けてもまた次の試合がある。「これで人生終わるわけではない」と考えると、ラクな気持ちで試合に臨めるようになり、マッチポイントをとられても思い切ったプレーができるようになった。体力、技術面に以前より劣りながらも続けてこれたのは精神的に強くなったおかげたと思う。
 ソフトテニスも新ルールに変わり、今までの省エネテニスでは通用せず、前衛の運動量が多くなり、体力的にはきつくなるが、体力の続く限り続けたいし、今まで学んたことを後輩にも伝えて行きたい。
 また、平成11年のインターハイに向けて、中学生の強化も充実させて行きたいと思います。

双子姉妹ペアでインターハイベスト8に
二戸市 植 村 とし子(小鳥谷中)
 ソフトテニスを始めてから23年になる。テニスとの初めての出会いは、小学6年の時父親につれられて岩手国体を見にいったことです。テニスがどういうものかもわからず、見てきたという感じです。中学に入学してクラブをテニスにしようか陸上にしようが迷っていると、父が「陸上は予選で負ければ終わりたが、テニスは自分が負けても団休戦で他の2チームが勝てばどんどん上位にいけるからテニスがいいよ」と言われてテニスをやることにしたのが、最初キッカケです。父もテニスをしていたので、学校以外の練習の時や大会などには、父はかかさず相手をしてくれたり、応援に来てくれました。
 中学時代は、朝5時過ぎに起きて近くのコートで父と練習、朝食をとり学校へ行き、帰ってからも時間があればテニスをしていました。この時の一番くやしかった事は、3年の中総体で負けたことです。この時はくやしくて泣いても悔いが残りました。テニスに負けたというより雨に負けたからです。そして前年全国大会を経験していたので、3年の時こそ予選リーグを勝ってトーナメントに行きたいと思っていたので、ショックは大きかったでず。この年から第1回東北中学生大会が始まり、全国大会に出られない分、東北大会では頑張ろうとお互いに決め、記念すべき第1回東北大会で優勝することができました。この時福島県西郷一中のペアに前日の練習試合、団体戦、個人戦と3回戦って全部私たちが勝ったこのペアが、全国大会でベスト8に入ったというのをあとで聞いた時のくやしさは、一生忘れられませんでした。このくやしさをバネに高校に入ってから、もっともっと頑張ろうと心に決めて高校時代のテニスが始まりました。
 私たちペアは双子で、中学からテニスをして、東北大会、全国大会を経験していましたが、高校でのテニスですぐ勝てるという自信はありませんでした。高校での初試合は、1年の県民大会でした。地区で優勝して県大会に出場しましたが、2回戦で負けてしまいました。この時には、精神面で本当に勝とう、勝ちたいという気持ちが弱かったと思います。県民大会のくやしさをバネに新人戦で初めて優勝することができ、それからは、どの大会でも、受け身ではなく、いつでも向かっていく気持ちで自分自身に声をかけて試合に臨んできました。練習でも男子を相手に試合をしたり、一般の人が相手をしてくれたり、そして試合に負けた時は、何回も勝つまで挑戦していきました。高校2年の時、初めてインターハイに出場しました。埼玉県熊谷市で初めてという事で、全国の有名な人や強い人たちのプレーを見て、まわりの雰囲気にのまれて自分たちのテニスができないで終わってしまい、2回戦で負けてしまいました。来年こそは絶対3回戦以上勝とうという気持ちで毎日練習に試合に頑張ってきました。大会の朝、コートで練習していると川村先生や菊池先生に指導をしていたたいてとてもうれしかったです。ふたんはほとんど県連盟の先生方などに教えてもらうことはないので、大会の時は色々な先生方から指導をしてもらうことは、私たちにとってはとてもうれしいし勉強になることがいっぱいありました。こうしてむかえた最後のインターハイは、長野の松本インターハイでした。去年以上は勝ちたいという気持ちで試合に臨みました。1回戦不戦勝、2回戦石川県輪島高ペァに4−Oで勝ち、3回戦広島県因島高に勝ち、いよいよ4回戦前年度団体優勝チームの3番手、福岡県博多女子商でした。この試合は、ファイナルまでもつれ、途中3ゲームと5ゲーム終了後、ペァで前衛の妹が鼻血を出し、2度試合中断をしましたが何とか勝つことができました。この試合は本当にラリーの勝負でミスしないことが大切でした。この試合で波に乗ってしまい第3会場から第2会場へ移動して5回戦、鹿児島県鹿児島高に4−Oで勝ち、6回戦愛媛県新居浜高にも4−Oで勝ち、ベスト8に残ることができました。この第2会場から今度は第1会場に移動してメインコートでの試合になりました。準々決勝の相手は、兵庫県松蔭高校の原田・近藤組です。この試合では、メインコートでやるということと、まわりの雰囲気にのまれてしまい、試合開始してあっという間にゲームが終わってしまい、あとで何もできないで終わってしまい、少し悔いの残るゲームでしたが、私たちにとって、昨年以上勝ちたいという気持ちで臨んた大会で、思いもかけないよい成績で、全国第4位という結果を出せたことは、とてもうれしかったです。このインターハイの経験をもとに、努力してがんばれば必ず結果はついてくると思いました。
 このあと県民大会、ミニ国体と優勝し、初めての国体にも参加することができました。佐賀県小域町で行われた国体では1回戦で栃木県に敗れてしまい、高校生活のテニスが終わりました。
 今、振り返ってみて、私たちの高校時代は、事務の佐々木芳雄先生に指導していたたきましたが、仕事の関係で毎日出ることもできず、ほとんど生徒中心に計画的に自分たちで練習を行ってきました。その中でゲームでも練習でも自分たちの納得のいくまで練習をやり続け、試合に負ければ、勝つまで何度も挑戦するという気持ちでゲームをしていました。また双子の姉妹ということでお互い言いたいことも口に出してしまうのでゲーム中、よくけんかすることも度々ありました。でもこの言い合いの中から2人のコンピネーションができあがってきたんたと思います。そしてぶつかりあうことでゲームにマイナス面が度々出ることがあり、これではだめたということで、どちらかが我慢しなければいけないと考え、後衛の私が我慢することで、ペァとしてのコンビがうまくいくようになってきました。とはいえ時々我慢ができなくなり爆発することもありましたが、こういうことも含めて精神的にしっかりしてあまりゲームで崩れるということは少なくなってきました。
 現在、中学生にクラブ指導しながら今の生徒は、テニスの大会でも講習会でも、私の時代とは違いたくさんあり、とてもうらやましいなあと思いました。せっかくこういう機会があるのたから、もっともっと積極的に参加して頑張ってほしいものです。今の生徒たちは走らせるとすぐ音を上げ、いやな顔をします。その度、走ることは、本当の基本、打つだけが練習じゃないと言ってます。走れなければ試合にも勝てません。苦しさからすぐにげてしまいがちな傾向にあると思いますが、この苦しさを乗りこえてこそ力がつくと思います。こういう気持ちを忘れずに頑張ってやっていってほしいと思います。
 私も出産や子育て、病気などでここ2、3年テニスから遠ざかっていますが、もう少し落ちついたら、また妹とペアを組んでテニスの大会に頑張りたいと思ってます。まず新ルールをしっかり覚えて成年の部で勝てるよう、そしていつまでも長くテニスに携わっていきたいと思ってます。後輩諸君も目標を大きく持って、自分にきびしくきたえ、平成11年の岩手インターハイに向けて頑張って下さい。

3回の鼻血をのりこえてインハイベスト8へ
 花泉町 佐 藤 きみ子(一関商工高校)
 私がソフトテニスを始めてから、すでに23年になります。今年で24年目に入りますが、これまで続けてこれたのは、私達姉妹、テニスが「好き」たったからです。テニスをしていた父に連れられて、小学校6年の時に昭和45年の岩手国体に北上市で開催されていたテニスの試合を見に行ったのが、私達姉妹とテニスとの初めての出会いでした。その時は、何もわからず、たたテニスの試合を観戦して帰ってきました。それから、一般の人達が練習している花泉北中学校のテニスコートに初めて連れられて私達姉妹が行き、その時にラケットとボールを借りて打ってみましたが、なかなか自分の思うようにコントロールすることができず大変でした。でも、テニスであれば、私達姉妹でペアを組めるのではないかと思いました。中学に人学し私達姉妹は、陸上部に入るかテニス部に入るか迷いましたが、父もテニスをしていたこともあり、姉妹2人でペアを組めるテニスを選びました。家の近くにはテニスコートがあったので、中学1年から高校3年までの6年間、毎朝5時から7時まで近所の人達と父と私達姉妹で練習してから学校へ登校しました。この6年間の朝練習は、私達姉妹にとってとても楽しく雨の日以外は休むことなく続けました。中学時代は、2年生の時県大会へ出場し、この大会は団休戦しかありませんでした。我が花泉北中学校は、この時、県大会で団体優勝をし、私達姉妹が全国大会の代表に選ばれ、東京で開催された全国大会へ出場しました。中学3年の時は、仙台市で開催された第1回東北中学校軟式庭球選手権大会で優勝することができました。花泉高校へ入学して初めて出場した試合は、県民体育大会の地区予選でした。高校に入学して初めての大会へ出場するまでは、毎日、ランニングと柔軟運動の毎日でした。初めての試合で、2人共、上がってしまいギクシャクした試合でしたが、1回戦が終わるともうコートになれて上がることもなく、自分達なりの試合をすることができました。初めての優勝は、高校1年の新人戦県大会でした。中学時代は、後衛が打って前衛は守っているたけでよかったのですが、高校生になると後衛がポイントを決めるのは、サービスエースぐらいで、あとはボールを粘り強くつなぐたけで、ポイントを決めるのはおもに前衛でした。でも、後衛の助けがあって初めて前衛は、思いきり動くことができたのたと思う。決勝は、専大北上高校と対戦し、私達姉妹とは中学時代からの友達でした。試合が始まったのは5時過ぎで暗く、この頃はナイター設備もなく、私はメガネをかけていてあまりボールが見えなかったので、後衛にまかせてあまり動かずに守っていましたが、相手がバックアウトしてくれて、とても助かりました。そして、県インドア大会に優勝し、山形県で開催された東北インドア大会に出場し、第3位に入賞することができました。高校2年になって初めて高総体に出場し第3位に入賞し、初めて埼玉県熊谷市で行われたインターハイに出場しました。2度目の新人戦県大会の時、私達姉妹は優勝できると思っていませんでした。準々決勝で相手にリードされ、もうためたと思った時、2人で力を合わせて逆転勝ちを決めた時は、苦しい試合でしたが、やったという充実感でとてもうれしかったです。決勝は、またも専大北上高校と対戦し、優勝が決まった瞬間、2人でコートの上で飛び上がって喜びました。続いて、県インドア大会にも2年続けて優勝し、宮城県仙台市で開催された東北インドア大会に出場することができました。高校3年になって、高体連、県民体育大会に優勝することができました。高校3年間で一番嬉しかったことは、インターハイに2回出場できたことと佐賀国体に出場できたことです。2年の時のインターハイは埼玉県の熊谷市で開催され2回戦で敗退しましたが、全国のレベルはずいふん高いなあと感じました。3年の時のインターハイは長野県の松本市で開催されました。大会初日は、途中から雨が降り試合が順延になりましたが、2日目からは天気もよく絶好のテニス日和でした。1回戦、2回戦、3回戦を勝ちぬき4回戦は昨年度個人ベスト8の博多女子商業高校の中尾・堀組と対戦しました。負けてもともとと2人共ひらき直って伸び伸びと試合をし、この時、前衛の私が試合開始から3回も鼻血を出して途中何回か中断しながらでしたが、試合をやりぬくことができました。終わってみると4対3で私達ペァが勝っていました。 2人共信じられませんでしたが、それからは波に乗り4回戦、5回戦、6回戦と勝ち上がり、気がついた時には準々決勝でした。準々決勝は、兵庫・松蔭高校の原田・近藤組に4対Oで敗れ、ベスト8で第4位ということで、高体連の代表として京都府で開催された全日本総合選手権大会へ出場することになりました。そして、高校生活の最後に岩手県の代表として佐賀国体に初めて出場することができました。私達は、いろいろな大会で勝つことにより、たくさんの大会へ出場できました。高校時代は、顧問の先生はテニスをしらない先生でしたので、男子テニス部に試合をお願いして相手をしてもらいました。最初は全然、手も足もでず負けてばかりでしたが、何回かやっているうちに勝てるようになってきました。また、クラブ活動以外にも父が一般の人達と練習する時に私達姉妹も連れていって相手をしていたたきました。花泉高校卒業後は、姉妹で東京女子体育大学へ進学し、大学でもテニス部に入り、技術面たけではなく、精神面も鍛えていたたきました。東京女子体育大学卒業後は、姉妹で岩手県に戻り、姉は中学校の保健体育の教員として、現在、一戸町立小島谷中学校に勤務し、私は、私立一関商工高校の保健体育の教員として勤務しております。仕事・家庭生活の合間をみて、また、姉妹2人で組んで試合に出たいなあと思っています。私達が中学・高校時代には、強化合宿等、何もなく、また、指導者もいませんでしたが、私達姉妹たけの力ではなく、たくさんの回りの人達の協力のおかげで、今日の自分達があるのたと思います。現在は、強化合宿はもちろんのこと、たくさんの大会を数多く経験することができ、たくさんの素晴らしい指導者の先生方がおります。私達の時代からみればうらやましいかぎりです。後輩諸君も、このような素晴らしい環境の中で、1人1人自分の技術、精神面を磨き上げ、来る平成11年の岩手インターハイに向けて、全力を尽くして頑張って下さい。

先輩に学ぽう!! 私とソフトテニス No.3
       ゲームを楽しむ

      一関市 山 田 雅 宏(県立胆沢病院) 私がソフトテニスを始めてから22年になる。小学生の時に父親に連れられて一緒にテニスコートに行ったのが始まりでした。中学に人学してテニス部に人り本格的にソフトテニスを始めた。そして3年の時に県大会の個人戦で優勝して東北大会と全国大会に出場することができ、全国のレベルを体験できた。この時は予選リーグを突破し決勝トーナメントに進むことができた。これで少しは自信が持てるようになり、またもっと練習して強くなろうと思った。
 高校に人学してからは、学校の練習のほかに市のテニスコートに行って、社会人の先輩達と練習する日が続いた。これが私にとって大変いい練習になった。先輩達の練習を見ては、フォームをまねして素振りをしたり、乱打をすることによりシュートボールになれることもできた。また試合を見てボールの配球などをおぼえたり、試合後にアドバイスをもらいとてもいい練習ができた。チームメイトと練習するたけでなく外にでて自分より上の人達と練習することは自分のためにとてもいいことでした。いろんな人のプレーを見て自分にあったスタイルを見つけることができたし、ゲームの組立など大変勉強になった。おかげで高校1年の時にミニ国体出場、新人戦優勝といい成績を残せた。しかし、その後プレッシャーと体調の調整の失敗から2年の時高総体県大会2回戦敗退、県民大会2回戦敗退と大変悔しい思いをした。何といっても勝たなければいけないと思いすぎて自分自身で潰れてしまつた。しかし、このおかげで初心に返ることができもう一度鍛えなおして新人戦優勝、3年の時にインターハイに出場する事ができた。インターハイでは力を出しきれずに1回戦で負けてしまったが技術的なことよりもメンタルな面で負けてしまった。試合中受け身に回ってしまい思い切ったプレーができず悔いが残った。インターハイでは最初から強気に思い切ったプレーをしないとなかなか勝つのは難しいと思った。この悔しさをバネになんとか全国で通用したいと思い高校を卒業してもソフトテニスを続けることになる。
 高校卒業後社会人の大会に参加するがなかなか思い切ったプレーができずいい成績を残せなかった。また全国大会にも出場する機会がないまま月日が過ぎていった。しかし、日本大学から星和彦君が岩手に帰ってきて彼と練習するようになり深いシュートボール、ロブなどに少しずつなれ、また最後までボールをあきらめずに追いかけるなど私にとってとてもいいイメージで練習ができた。また彼の誘いで全日本社会人や東日本大会などに参加するようになった。これらの大会で運良く日本のトップクラスの北本・斉藤組や洲崎・大野組などと試合することができた。
 彼らのラリーはシュートポール、ロブともベースラインいっぱいにはいってくるし、前衛のポーチは早いし、スマッシュもバックライン近くまでさがって打たれてしまう。彼らと試合をして弱気になって打ったボールはほとんどとられてしまった。しかし、強気で思いっきり打ったボールは意外ととられなかったし、タイミングがあってもミスしてくれることもあった。彼らとの技術的な差は確かにあるがまず精神的な差をなくすことが大事である。これは誰と試合するときでも同じたと思う。弱気になったり、受け身になったりすると簡単にポーチやスマッシュされたりミスしたりとなかなかいいゲームができない。また、ミスやポーチされたイメージを引きずってプレーしてはいけない。いつまでも引きずっているとそれが弱気や受け身になってしまい相手に有利にゲームを進められてしまう。早く気持ちを切り替えて思い切ったプレーをすることが大切た。また時には、相手に取れるものなら取ってみろというくらいの強気でプレーすることも必要た。
 このごろはゲームを楽しんでできるようになってきた。これもまた重要なことたと思う。ゲームを楽しんでできるようなってきたおかげでプレッシャーもあまり感じなくなり、ゲーム中の気持ちの切り替えができるようになり、自分の思った通りに思い切って打てるようなった。また一つ一つのプレーを考えてできるようなった。それでもなかなか全国で勝つことは難しい。しかし、一つでも多く勝てるように自分を鍛え挑戦していきたい。
 皆さんも全国という大きな目標を持って技術面、精神面を鍛えインターハイ、国体等全国に向けて頑張ってくたさい。
       私とソフトテニス

       種市町 玉 沢 百 香(東北銀行)
 私がソフトテニスをはじめるきっかけとなったのは、中学入学の頃です。どのクラブにはいろうか迷っていたとき、父に強くすすめられたのがソフトテニスでした。テニス部に入部しても女子部には指導者がいませんでしたので、学校での練習以外に、一般の人にまじって町の体育館での夜間練習に参加したり、父に相手をしてもらったりという感じでした。中学では、3年の時に地区で優勝し、県大会へ団体戦で出場しました。はじめての県大会でその時の1回戦の相手が江刈中でした。当時江刈中は佐々木義孝先生が指導されていまして、県大会でも連続優勝している学校でしたので、勝ち負けよりも、対戦できるということが私達にとってはすごいことでした。それに勝ってしまったことで波にのり、優勝してしまいました。この時、高校でもテニスを続けてみたいなと思っていましたが、普通にハ戸の高校に進もうか迷っていたとき、当時の男子部の顧問たった佐々木克良先生に、テニスを続けるなら指導者のいるところでやってみたらどうかといわれ、その中で花南をすすめられました。私は、県南の高校はよくわからなかったのですが、当時花南は中野脩先生が指導されており、県内、全国でも活躍している学校と聞きました。たた私のようなものがついていけるのかという不安はありました、この頃はテニスを頑張ってみたいという気持ちの.ほうが強かったと思います。しかし、入学といれ違いに中野先生が転勤されましたので一年間は結局指導者不在で、先輩から教えていたたくことが多かったです。花南のテニスは、後衛は確実にボールをつなぎ、前衛が確実にポイントする。中学と高校という差はあるものの、私の今までのテニスとは全く違う迫力を感じまし。この頃、先輩と組ませていたたいたことがありましたが、やる気はあるものの、思うようなプレーができず何度も悔しい思いをしました。明日はどういうゲームをしようと考えた時、後衛の私にできることというのは、技術的なことより、気持ちで負けないことと、最後まであきらめないでボールに追いつくこと!そして、どんなボールでも返せる!ということくらいたったんです。それで前衛がポイントしてくれれば○。よ"2人で1本"と言われましたが、それが一番気持ちのよいポイントだったと思われます。
 高校時代なかなか勝てませんでしたが、2年の時、小野隆土先生が花南を指導することになりました。その年の新人戦で団体戦、個人戦とも優勝することができました。そして3年の高総体、個人戦は優勝することができたものの団休戦は決勝で敗れてしまいました。インターハイは三重県伊勢市で開催され、個人戦に出場した私は3回戦めで高田商に敗れました。最初リードしていながら負けてしまったということで、自分自身の気持ちで負けたこと、そしてどうしてもっと上を目指して頑張れなかったのかという悔いがのこっています。又、ミニ国体にも出場しましたが少しのところで通過できず国体には出場できませんでした。大学でもテニスを続けてみたかったのですが、進路が思うようにいかなかったこともありテニスは続けるつもりはなかったのですが、短大の先輩や友人に誘われて2年間楽しいテニスを経験しました。
 卒業後、岩手にもどることが決まり、伊東久美子先生に声をかけていたたき、ペアを組ませていたたきました。いろんな大会を経験でき、いろいろ教えていたたきました。社会人1年目で念願の国体に出場できとても感激しましたが、東芝姫路と対戦し惨敗。レベル違いを感じました。2年目の沖縄国体にも出場でき、一般女子では初の初戦突破しましたが、私は勝てませんでした。国体で1勝をあげることを目標としていた3度目の京都国体ではじめて勝つことができました。この時、一般男子がBe s t 8にはいった試合を見てとても感激し、自分もああいうゲームができたらと思いました。"国体で勝って入賞すること"という目標は、その後2回計5回国体に出場しましたが、またまた達成できそうにありません。
 私が今までテニスを続けてきて16年になります。私よりも大先輩の方がまたまたいらっしゃいますが、私なりに、よく今まで続けてこれたなとふと思いました。テニスができる環境にあったこともそうですが、好きで続けてきたというよりは、私の場合テニスを続けている中で少しずつ目標ができそれをクリアーしていくことに精一杯だったように思います。今まで先輩方に教えていたたいたことを、若手の方に少しでも伝えていけたら……。岩手のレベルアップを期待し、私も今後、楽しくテニスを続けていけたらと思っています。
 最後に、平成11年岩手インターハイヘ向けて頑張っている皆さんへ、指導者にも恵まれ、技術的にも精神的にも鍛えられている皆さんには、地元開催という大舞台での思いきったプレーと活躍を期待しています。頑張って!

先輩に学ぼうが 私とソフトテニス No.4
      走る、守る、攻める

       遠野市 遠 藤 智 之(遠野保健所)
 私のソフトテニスとのかかわりは随分古い、なにしろ30数年にもなりますので、ほとんど化石みたいなものであります。しがも今や新ルールとなり、私がいままで培ってきた技術やノウハウが役に立たない場合も出てきております。
 こんな訳で、果して私の経験がどれたけ皆さんの参考になるのか疑問ではありますが、少しでもお役に立てればと思い述べさせていたたきます。
 さて、永いテニス歴ですから、いろいろな事がありました。千厩中学のとき県大会に出場し、上には上があるものたと思った事から始まって千厩高校2年の時に東北大会、インターハイに出場したは良いけれど、いずれもマッチポイントのスマッシュ(当時私は前衛であった。)をミスして逆転負けしたこと。楽しくも苦しくもあった岩手国体。翌年の和歌山国体での3位人賞等々。中でも、成年の部になってから全日本社会人選手権で準優勝し、その年(昭和61年)の全日本2位にランキングされたことが一番の思い出でしょうか。
 こんな私の体験の中から、特に上達のきっかけとなったこと3点を紹介しようと思います。
 1つは、岩手国体を2年後に控えた冬、東日本水戸インドア大会でのことです。予選リーグの最終戦、2勝同志で相手は第1シード、ゲームカウント2−3でマッチポイントを握られて、次の球を、・相手は前衛のサイドを抜いてきました。私はやられたと思いました、が、それでも走りました。あきらめずに必死に追いかけラケットを出したところ、これが何とかラケットに当たって返ってくれて、しかもそれが相手のミスに繋がったのです。これで試合の流れが変わり、この試合を逆転勝ち出来たのでした。あきらめずに追いかければ足の速くない私でも、何とか成ることを教えてくれた試合でした。
 この大会は、ピンチヒッターとして出たものであり、前衛の三浦君(東北電力)とは、初めてペアを組んたのでしたが、これが縁で、その後も彼とペァを組むこととなり、岩手国体の代表に選ばれることとなったのです。
 2つ目は、社会人になってから後衛に転向した私は、当初はたた速い球たけを打っていました。ところが、ゲームとなれば何時でも打てる訳ではなく、その時は仕方なしにロブを使うのですが、これがよくスマッシュされる。他の選手のロブは通るのに、自分のだけが通らないのです。困った私に先輩は、「つなぎの球」を覚えろとしか教えてくれませんでした。(当時の先輩達はくわしい指導はせず、見て覚えろというようなやり方たったのです。)ところがその「つなぎの球」がわからないのです。たたロブのことたということまでは、理解できましたのでロブを打てるように努力はしておりました。
 そうして時が過ぎ、岩手国体の練習でなかなか勝てない時期があり、思いあまって、藤原選手(前衛で、日体大時代は、あの西田現日体大監督と組んでいた。)に教えを乞うたものです。ところが、彼は、「私は遠藤さんの弱点を知っています。たけど、教えたくありません。」というのです。なぜなら、それを教えれば自分達が勝つのが難しくなるというものたったのです。このとき一流選手の厳しさというものを知らされた気がします。
 ともあれ、岩手のためにということで、最終的に教えてもらったことは、「つなぎのロブは後衛側にあげろ」でした。私がロブを打つときは、常に前衛の頭を越そうとしていたため、前衛に叩かれることが多かったのです。たかが、これたけの事。しかしこれを分かるのに私は3年間を費やしたのです。
 不思議なことに、このロブを使うようになってからは苦しい場面でも気持ちのゆとりが生まれ、それとともに他のプレーにも自信が湧いてきて、勝率も上がって行くようになったものでした。
 3つ目に、ある程度ロブも打てるようになったとはいえ、レベルが上がってくるに従ってどうしても、攻撃の球を打たないとなかなか勝つことはできません。いくら速い球を打っても、相手がよければそれたけでは通用しないのです。そこで何とかいい攻撃法はないものかと考えておりましたところ、ふっと、昔のことを思い出しました。また前衛たったときのことです。
 当時、ポーチに出れば抜かれ、守ればミドルを割られるという嫌な先輩がおりました。どうして自分の動きが見破られるのかを先輩に尋ねました。その先輩は「お前が何処に動くのかはわかる訳がない。たた、何処かに動くたろうと思うから、居る場所に打つのた。」というのです。このことを、思い出し、今度は自分も実践してみることにしました。これがすごく効果があり、その後、対戦した前衛陣を随分悩ませたようでした。
 以上の3点を述べてみましたが、いずれも判って見れば難しいことではありませんし簡単なことなんです。しかし、このことによって私は、確実に進歩をしたと思っております。
 人は何かをきっかけに上達するものです。たた、それが何時、どんな形で来るのかはわかりません。1年先なのか、1週間、いやひょっとして明日なのかもしれません。そのときのために不断の努力ということが大切なのです。そのときを逃さないために。

       私とソフトテニス

    水沢市 高 橋 久 子(興亜火災海上保険)
 私がソフトテニスを始めたのは、兄がソフトテニスをやっていたので、影響を受け、始めました。中学から始め今、成年でプレーする年まで、よく続けてやってきたと思います。根本にはソフトテニスが好きたからと言って良いと思います。そして、ソフトテニスによって、自分自身の精神面の向上(テニス以外の事に対しても)、いろいろな人達との出会い、そしてつながりができたと思います。
 学生時代は、朝練習をしたり、放課後日没までやったりと、とにかく一生懸命ボールを追っていました。昼休み時間には、放課後すぐコートを使える様、石灰を水で溶きハケでラインを書き、コート整備をしておいたりと、ボールを打つ以外の事も一生懸命やったと思います。本当にこのころにテニスの基礎的な事をしっかりと修得したような気がします。しかし、試合の事に対しては、今思えば、試合で勝つためにはとかゲームの組立の研究とか欲がなかったと思います。頑張ってインターハイそして国体に出たいと思いながらも漠然と練習してたんでしょうか学生時代には、全国大会レベルの大会には、無縁でした。
 一般になって2年目に東日本大会を経験して全国レベルのプレーを見、プレーのすばらしさはともかく、きびきびとした動き、1本1本に対しての集中力、見るものすべて圧倒させられました。自分が井の中の蛙状態たったとこの時以来、試合に対しての気持ちの持ち方が変わり、今まで以上にやる気が出てきたのを覚えています。このころから国体に出たい!と目標を持って練習をしました。そして、ソフトテニスをしている頂点の人達の情報など意識して興味を持つ様になり、テニスマガジンとか購読したりして、少なからずプラスになっていったと思います。
 スポーツでは、心・技・体という事をよく言われますが、ソフトテニスに関しては、心=メンタルなところが良く出るスポーツたと思います。そのメンタルなところがなかなかむずかしく、ミスしたり、1本とられたりすると、またとられるのではとかいろいろ考えてしまい消極的になり、かえってミスし悪循環になり、負けにつながったり、逆にゲーム中陥ってきたりして気持ちを切り替えて、同じ打つなら自信を持って思いっきりと、打ってみようと開き直れたりと……。
 いろいろ経験を積み重ねやっと念願の国体出場が決まった時はうれしく、そして実際国体というものを経験した時は感動しました。
 社会人になると学生の時とは違い練習時間が少なくなり、自分で時間を作って練習しなければならなくなります。体力の方も年々落ちてきているかもしれませんが、精神力、技術を磨くことに終わりはないと思います。ソフトテニスは年令なりに楽しめるので、常に興味を持ち、やる気を持ち、これからも続けて行きたいと思っています。

       私とソフトテニス

   岩手県教育委員会保健体育課 伊 東 久美子
 高校の人学式を数日後に控えた4月1日、オリエンテーションの日のことです。中学校のクラブ活動(バスケットボール)で、一勝もしたことがなかった私は、「来たれ盛一軟庭部!インターハイ○回出場」のビラと、後にペアを組んたあっちゃん(松本敦子さん、旧姓山崎)に誘われて、強いのは男子たっだのを女子も強いと勘違いして、その日のうちに入部してしまいました。
 勘違いから始めたテニスでしたが、じわじわと魅力にとりつかれて今日に至った理由を考えてみました。
 一つ目は、先生方のお陰です。明日からクラブに来なさいといわれた4月2日は、一本打ち、次の日はボレー。榮光先生がまずやってみなさいと、何も解らないままボレーをしたのですが、これがとてもおもしろかったのです。実は、上げボールをしてくれたのは卒業式を終えたばかりの先輩で、上げ方が上手いので、大リーグボール(巨人の星、知ってますか?)のように、ポールがラケットに当たってきたのですが。
 当時、学校には、松本和男先生(現在盛岡市ソフトテニス協会会長)、菊池榮光先生(現在宮古北高校校長)、及川征一先生(現在大東高校教頭)と3人の先生がおられましたが、特にも、女子の顧問の及川先生が英語の添削のノートを40〜50人分程入った黒いふくれたバックを下げて、毎日テニスコートに来てくたさったことが印象的です。部活指導の時間を確保するため、家で仕事をなさっていたのでしょう。ありがとうございました。
 自分が教員を目指し、今もテニスに関わっているのは高。校の先生方と、その後一般女子の監督でお世話になった村上先生(現在連盟の会長)のお陰と感謝しています。
 テニスを続けることができた理由の2つ目は、良い仲1問と、ペアに育ててもらった事です。
 高校のペアのあっちゃんは、初心者の私をいつもドンマイと励ましてくれました。3年生でインターハイ、国体に出場できたこと、高校時代でテニスを終わりにせず、大学でも続けようと思ったのは彼女のお陰です。
  その後、岩手大学に進学し、後藤律子(旧姓高橋)さん:東北学生チャンピオン、一戸幸子(旧姓武田)さん:関東一部リーグの東京女子体育大学キャプテン、小原智子(旧姓川村)さん:当時大学日本一の和洋女子大学のレギュラーと実力ある先輩方とペアを組ませていたたき、後衛と前衛の力のバランスが悪いことが自分でも解って いましたが、大学に指導者がいない中でも少しずつテニスのことが解るようになったのはみなさんのお陰です。
 (高校生の特にも後衛の皆さん、前衛を代表してお願いします。前衛は後衛に育ててもらうんです。ちょっと時間がかかるんですが、よろしくお願いします。)
  平野法子(旧姓高橋、現在黒沢尻北高校2年生鉄平君のお母さん、当時末っ子のチエちゃんが2才くらいでした)さんとも長野国体でペアを組んでいたたき、子供がいたってできるんたと思いました。
  後輩のペアは、藤原初恵(旧姓小沢)ちゃん、釜谷由香(旧姓玉沢)さん、彼女たちは高体連チャンピオンでコートカバーが良く、随分ミスをカバーしてくれました。
  先輩のペアも後輩のペァも、技術のすばらしさはもちろんですが、みんな人間的にすばらしい人たちでした(先輩に向かって生意気ですが…)。彼女たちは私がミスをしても決して勝負を捨てず、お願いすると何分でも上げボールをしてくけ、疲れていても「ナイスボレー」と言ってくれる人物でした。(前衛のみなさん、上げボールって、実はとても疲れるんですよ、後衛に感謝しないとね。)
  逆に、私のペアは私をどのように思っていたか、ちょっと自信がないんです。高校生の皆さん、ペアは君のことをすばらしい人間たと思っているでしょうか?
  さて、いよいよテニスの魅力にとりつかれた3つ目の理由は、教え子たちです。
 ペアのお陰で8回国体に出場して、その時々で自分なりにがんばってはいたのですが、今思うと随分漠然とした目標たったと思います。今は違います。他の先生が、 宗教的たと言う程テニスが好きな生徒たちと、理解のある保護者、全国の様々な指導者に出会って、「目指せ全国」という意識が強くなりました。この意識は「教え子が全国で活躍」ということはもちろんですが、もっと広がりが出てきて、「小学生を全国大会に連れて行こう」、 「自分自身も全国に挑戦しよう」という思いになってきたのです。(自分の、特にも実現できるか解らないことを言うのは恥ずかしいのですが、インターハイに出るのが目標たった自分を反省していることと、幸いテニスは年齢別に全国大会があるので書きました)。
 村上先生が良く「ボールがラインの内側でも外側でも、試合に勝ってもそれで得する訳じゃないのに、がんばれるっていうことは価値のあることなんた」と言っておられるのですが、そうなんです。そして、自分の得意な分野に携わることができること、「全国へ」という夢を持つ事ができることを幸せに思い、これからもテニスに関わって行こうと持っています。
 今、よんころを読んでくれている高校生の皆さんが、一般の選手、又は指導者となった折り、「全国へ」と同じ夢を語って試合後のビールを飲めたら最高です。

先輩に学ぼう!! 私とソフトテニス No. 6

     部員たちとのコート造り

      宮古北高等学校校長 菊 池 栄 光
 私のソフトテニスの顧問としての仕事は、テニスコート造りとの巡り合わせといっていい。 最初の中学校で一面作ったが、つぎに赴任した平舘高校においてもソフトテニス部は無く、バレーボール部や野球部を受け持っていた。
 そのかたわら、隣接の中学校跡のグランドの一隅に仮設ネットを張り、同好のものを募ってソフトテニスを教えていた。
 放課後に教えるということを出来なかったので、昼休みや朝の早い時間帯に少しずつ教えていった。翌年、部として承認され本格的な活動が始まったが、仮設コートは返却しなければならず、まずはコート造りから始めなければならなかった。
 グラウンドとして拡張してもらった畑の後に、部員と一緒に鍬やレーキを手に、汗をかきかき地ならしをして二面のコートの広さを確保した。バックネットはトロッコのレールを、安く手に入れて支柱として立ててもらい、金網を買ってもらって部員で張り、曲がりなりにもテニスコートができ上がった。4年目になってはじめて本格的なテニス部として活動を始めることができた。
 高総体の地区予選では、個人戦が一組か二組予選を通過するのがやっとであったが、皆手づくりのコートで練習して大会に参加できたことに、大きな喜びをもっていて、まさに参加することに意義ありであった。翌年になり盛岡一高に勤務することになった。古い歴史のあるところなので、当然コートがあるものと思い赴任してみたらそれが無く、新装なった校舎に移ったばかりで、またあちこち未整備の状態であり、練習場を求めてジプシーの生活であった。 一年後古い校舎の残骸が取り除かれたが、コートが造られる気配はなかった。待ってもことは進展せず、意を決し部員と共にコート造りに入った。
 90年に近い歴史を刻んた古い校舎の土台石は、土中深く頑丈で、ツルハシやスコップではなかなか歯が立たず、連日汗まみれになって取り組んたが、遅々として進まながった。手はまめたらけで練習するにもヒリヒリと痛く大変であった。見かねてか学校では、大型機械を入れて整地を行ってくれた。その作業能力はすさまじく、われわれの手作業との違いをまざまざと見せつけられた。またたく間に夏休みを利用して荒削りの地盤ができ上がり、そこからはまた自分たちの手作業で、細かい凹凸をならしていった。古材を利用して手製のネットポストとベンチを作ってペンキ塗り、近隣の学校から古いネットを貰い集めて何とか4面のコートができ上がった。バックネットは、使い古しのテニスのネットを木の杭を打ち込んで張りめぐらし、待望の自前のコートで本格的な練習に入った。
 1年生で入ってきた部員はいつの間にか3年生になっていた。 自分たちのコートで練習できる喜びでいっぱいの選手たちは、試合でもはつらつとしていて、高総体において男子が団体優勝を果たすことが出来た。このときの喜びは、コート造りの苦労とあいまって、選手と共に忘れることのできない思い出となっている。学校からは優勝のご褒美として、バックネットを張り巡らしていたたき、やっとコートと言える状況が出来上がった。練習試合に訪れてくれるチームも県内外から多くなり、部員も増えていった。
 次に浄法寺高校に赴任したが、これまた新校舎が落成して環境の整備に入るところであった。ここでも部員と一緒に手に手に道具を持ってコート造りに入った。ここでは仕事帰りに町の職員がグレーダーで地ならしを、水道屋さんが側溝掘りを、ダンプを持っている人が砂運びをと、多くの人達が無報酬で快く手伝ってくれた。バックネットの支柱は、冬山から間伐材を部員が引っ張って運び出し、部員の保護者の勤労奉仕で立て、網は宮古の漁家から古い漁網を貰い受けて張った。
 ネットポストはここでも古材を利用し、ネットは県営運動公園から使い古しのネットを貰い受け、4面のコートが完成した。
 造り始めてから1年を要した。出来上がったコートでは、二戸地区の予選が行われた。当時四面のコートをもっていることは選手たちにとって最大の武器となり、内容の濃い練習をコートを独占して行うことができ、技術の向上に役立った。
 その成果があらわれたが、この年のインドア大会で女子が何とか団体優勝をすることが出来た。
 いずこでも、苦労して作り上げたコートは選手達と私にとって宝物であり、大事に手入れをして使い、そこからはピンチに強い選手が育っていった。

       夢をつかめ!

     宮古西中学校教諭 君 塚 圭 −
 東京から盛岡に越してきたことが、そもそもの始まりです。近所に住む高校生の影響で兄と共に始めた軟式テニス。ここまで自分の人生に深く関わるとは誰が想像したでしょう。
 中学校時代の実績はありません。高校に入学し、菊池栄光先生、松本和男先生、及川征一先生と3人もの素晴らしい指導者に恵まれ、初めて夢を持ちました。「インターハイに出たい」と。心温かい仲間たちと共に、朝、昼、放課後真っ暗になるまで、生き生きとボールを追い続けた毎日は、今思えば光り輝き充実した日々でした。
 インターハイに出場する夢は高校3年生の時にかなうわけですが、松本インターハイ3回戦での悔しい敗戦を契機に、全国で勝ちたいと思うようになりました。
 学生時代は、試行錯誤の連続でした。技術的には東北レベルから脱却することができず、逆に嫌というほど自分の心の弱さを思い知らされました。たた、全国各地に多くの友人を持つことができたことは、かけがえのない財産です。
 私にとってテニスとの出会いは、素晴らしい人たちとの出会いでもありました。また、テニスを続けてきたのは、自分の弱い心に負けたくないという気持ちの表われたろうと思います。いつでも敵は、自分の心の中にありました。
 プレーヤーとして国体や天皇杯に出場して勝ちたい。また指導者として全国に通用ずる選手を育てたい。勝つことに対してこたわりを持っていた私は、“岩手に戻って中学教師”という道を選択しました。自分を育ててくれた岩手の地と軟式テニスに恩返しをしようと、盛岡駅のプラットホームに降り立ったのが昭和58年の春です。
 高校時代の仲間たちや先生方は、思っていたとおり温かく迎えてくれました。あらゆるところで、いろいろな方が指導してくたさいました。試合の方は、いいところまではいくのですが、近江・菅野組と小山・小山組には全く歯が立ちませんでした。
 社会人3年目(26歳)大きな節目となります。まず、自分を鍛える場所として八戸工大一高を選び、難波俊之先生の門をたたきました。後にインターハイチャンピオンとなる新坂・川尻組がいた時代で、日一日と自分が伸びていくことが実感できました。次に『メンタルタフネス』(ジム・レァー著)との出会いです。ここ一番というところでことごとく負けるのは、自分の性格的な弱さによるものと思い込んでいた私にとって、「精神面の弱さは、トレーニングによって誰でも克服することができる」という記述は、まさに九死に一生を得た思いでした。さっそく自分の生活にメンタルトレーニングを取り入れたことは言うまでもありません。さらに、鈴木博行さんという素晴らしい前衛にめぐりあい、育てていたたきました。その年、君塚・鈴木組で県インドアと東北インドァを取り、大きな自信を得ることができました。
 その後6年連続で県代表となり、国体には4回出場しました。なかでも昭和63年の京都国体で強豪岡山を3−0で破り第7位に入賞したことが忘れられません。天皇杯には毎年挑戦し続けましたが、結局2回戦の壁を破ることができませんでした。
 こうして、プレーヤーとしての私は現在に至っているわけですが、何歳になっても「日本一」という夢は持ち続け、挑戦していきたいと思っています。
 指導者としてのスタートは大学5年目に監督を引き受けたときで、その頃読んた『監督学入門」(武田健著)が私の指導のベースになっています。「日本の指導者は、怒ってばかりでほめることをしない。人は、ほめられ、認められてこそ伸びる」「根性主義はいけない。時間の浪費と選手の意欲喪失につながりかねない。科学的な根拠の基づいた練習を行うべきである。」
 岩手の中学生に関わって15年になります。和田慶喜先生や佐々木義孝先生のご配慮で、初任の年からジュニア合宿の指導者に加えていたたき、当時の県内中高のトップ指導者の方々がらたくさん学ばせていたたきました。
  『東北大会の壁を破って全国大会に出場すること』が長年の中体連の夢でした。それたけ東北の壁は高く、何度も何度も跳ね返されました。(昭和58年に全国2位になった赤崎中学校男子は、東北大会では3位でした。) その壁を初めて破ったのが、山舘・王舘組(小玉川中男子、藤沢崇監督)で、彼らは全国でもベスト8に進出しました。平成2年の夏です。私も俄然やる気が出て指導に力が入り、幸いにも翌年渡場・外谷地組(中野中男子)を連れて宮崎の全国大会に出場することができました。(東北5位、全国ベスト16)
  『ソフトテニスを通して子どもたちの心を育てたい』『将来どこへ行っても臆することなく活躍できる社会人になってほしい』これが私の願いです。勝ち負けはあくまでも結果に過ぎません。そこに至るまでにどんなドラマを演出することができたのか、どれたけ人間的に成長させることができたのか、指導者としての私たちの力量が問われるところです。北海道の安藤英明先生は、「その子の10年後、20年後のことを考えて指導する」とおっしゃいました。私などは足元にもおよびませんが、指導者である以上は、今たけでなく、その後の人生にもよい影響を与えられるような人間になりたいものです。
 平成4年、20名の仲間たちと中体連強化委員会を発足させました。目的を同じくする私たちの結束は固く、年2回の強化合宿での指導、指導方法の研究と普及、県大会での審判、若手指導者の育成、広報活動などを精力的にこなしています。県連盟や高体連、スポ少関係者の方々の全面的なご理解とご支援をいたたきながら、『自分の学校の生徒たけでなく、岩手の子どもたちをみんなで育てよう』を合言葉に頑張ってきました。その甲斐あって、平成7年には見前中男子が、そして今年は南都田中女子が、それぞれ団体で初めて東北制覇を為し遂げ、堂々と全国大会に出場しました。(見前中男子は全国ベスト8) 25年来の夢が、ついにかないました。どれほど多くの方々が喜んでくれたことでしょう。そして今、私たちはその次の夢をかなえようと、力を合わせているところです。幸運にも、この3月に伊勢市で開かれる全日本中学生大会の岩手県選抜男子チーム監督を7年ぶりに引き受けることになりました。現任校の宮古西中学校からも4名出場します。目標は優勝です。今や岩手がいつ全国をとってもおかしくない時代です。それは、昨年伊東夫妻率いる見前中が文部大臣杯で優勝したことですでに実証済みです。豊がな人間性とメンタルタフネスを身につけさせ、理にかなった練習を行うことによって、全国で勝つことは十分に可能であると思っています。
 最後に、今こうして楽しく自分を振り返ることができることをこの上なく幸せに思います。これもすべて、いつも私を支えてくれた家族とお世話になった周りの方々のお陰です。ありがとうございました。

     私とソフトテニス
      盛岡市 菊 地 信 子(あすかクラブ)
 中学校で友人に誘われて何も知らずにテニスクラブに入ったのが、私とソフトテニスとのつきあいのはじまりです。ラケットを見たこともない私でしたが、あれからもう40年以上という長い年月テニスとかかわりあっています。中学時代は上手くはなれませんでしたが、幸せなことにテニスが好きになっていました。
 高校では迷わずテニス部へ。そしてテニスが好きな5人の仲間と出会いました。幸運にも星信一先生という有能な指導者に恵まれ、私達6人は毎日毎日暗くなるまで練習しました。日曜日、夏休み等は岩山の貯水池のコートに自転車で通い、とにかく一生懸命でした。その甲斐あって2年生、3年生と高総体で優勝し勝つ喜びを得ました。国体は夢でしたが国体へ行きたいとの願望が強くなり、練習にも新たな意欲が出てきました。あこがれの国体、東京国体を手中に出来たのは高校3年生最後の年でした。1回戦は勝ち抜き、2回戦は当時最強の広島女子商業とでした。善戦及ばず敗れはしましたが想い出に残る実り多い国体でした。高校での3年間には練習の辛さ、また時折訪れるスランプとの戦いに苦しみ、そしてそれらを乗り越えながら試合で負けた悔しさ、勝利の喜びを身を持って体験することができました。卒業後は専売公社盛岡工場(現日本たばこ)に入社しました。工場にはコートが整備され素晴らしい環境に恵まれてテニスを続けることができました。一般としていろいろな全国大会に出場しましたが、その中でもうれしかったのは、昭和40年東北総合体育大会(仙台市)で一般女子が岩手県に初めての優勝をもたらしたことです。しかもこの年は1位のみ山口国体に出場できる年でしたので二重の喜びでもありました。
 その後結婚、出産、子育てに専念してしばらくはテニスから離れていました。昭和54年に岩手県にOGソフトテニスが発足し、第1回レディース全国大会へすみれ組で参加し、ママさんとして再開したのです。主人の転勤で仙台へ住むことになりましたが、テニスのおかげで素晴らしい友達と出会い、幸せにも転勤の淋しさを味わうことなく過ごすことができました。昭和62年沖縄国体には宮城県として出場し、これまでとはちがったうれしさを感じたものでした。
 約8年振りに盛岡へ舞い戻った時にはもう壮年の年齢になっていましたが、幸せにも国体に壮年2部が作られ、平成2年福岡国体に出場し、私にとって最後であろう国体で5位入賞の輝かしい成績を治めることができ、今までのテニス人生での最高の想い出を作ることができました。また壮年のテニスファンの夢をかなえるために誕生した東北新幹線都市対抗宇都宮大会に平成8年、9年と出場し、9年の第2回の宇都宮大会では盛岡市が優勝しました。団体戦は一致団結して皆で盛り土げて戦うという楽しみがあります。福岡国体以降、大きな大会への出場はもうないたろうと思い、少し淋しく、何か物足りなく感じていたので、このような大会が作られ、また新たな目標を持つことができました。
 今振り返ると私とソフトテニスはいっも一体で、テニスを通じて良き人々との出逢いがあり、その出逢いが私自身を育ててくれ、夢を持ち続ける素晴らしさを教えてくれました。これからも生涯スポーツとして、より楽しくつきあって行きたいと思います。

先輩に学ほう夕 私とソフトテニス No 7
  テニス一筋の45年間。協力と信頼が大事

   盛岡市ソフトテニス協会会長 川 村 幸 男
 私がラケットを初めて握ったのは小学校5年生の時で、家の近くにテニスコートがあり、いろいろな大会が開かれ上手な選手を見て、自分もテニスをしてみたいと云う気になり、見よう見まねでテニスを始めたのがきっかけである。
 その後戦争で中断し本格的にやり始めたのが昭和21年頃で中学校3年のときからであり、国体の初出場は、昭和22年の第2回の石川県で開催された国体で旧制盛岡中学校4年(現、盛岡一高)の時で、また田舎出の15才で全国の強豪と初めて会い、たた気後れたけはしまいと無我夢中で戦い1回戦、2回戦と勝ち、3回戦で敗れたのが初めての国体でした。それ以来1年1年積み重ねて、36回国体に出場することができました。初めの国体出場した頃は、戦後間もなくで、物資がなく、特に食糧難で米、ミソなどをリュックに詰めて、参加しシューズもなく素足で試合をし、ボールも配給制でラケットは貴重品で皆大切に使用したものです。当時に比べると現在は非常に恵まれた環境でテニスができるようになりました。
 私が36回国体出場した中で思い出にのこる国体は、初出場の石川国体(昭和22年)と教員の部で初優勝した兵庫国体(昭和31年)と昭和45年の地元岩手国体で優勝を果たした国体である。中でも、岩手国体の時は、私は監督であったが3年前から強化練習を重ね県外交流で東京や北海道に遠征し、東日本選手権大会や、全日本選手権大会など数多くの大会に出場し、技と精神面を磨き、そして自信をつけ選手と監督が一体となり苦労をして優勝したことは忘れられない。
 若い頃は国体に出場するたけで満足であったが、何回か出場しているうちに欲がでてきてどうしたら勝てるか、自分なりに考えて練習するようになった。そして、できるたけ数多くの大会に出場し、経験を積んで相手を研究しながら次の大会に勝つよう努力した。大会で準々決勝あたりまで勝ち進むペアは技術的にはあまり差はなく、大体同じ位である。そこで勝負を分けるの精神面と体力である。特に夏のカンカン照りの下での試合は体力である。体力をつけるには毎日の練習が大切である。
 私の若い頃は、スピードボールが主体のテニスでしたが、現在はロビングをまぜながら相手のウイークポイントを攻めるテニスに変わってきた。テニスは他の競技と違って自分のペースで年をとってもできるのが魅力で、現在もシニアのクラブや、ママさんのクラブの人達と汗を流しながら楽しんでおります。テニス一筋の45年間を通じて得た人生哲学は、「テニスも社会も協力と信頼関係が大事」であると云うことです。これからも楽しみながらテニスを続けていきたいと思っております。
大きな声を出し周りを見よう
   盛岡女子高校職員 東   聡 子(旧姓福島)
 私が、ソフトテニスを始めたのは、中学に入学してからです。でも私は、バトンを習っていたのでクラブを休みがちでした。中学1年6月ごろに顧問で担任たった先生にどちらかを選びなさいと言われソフトテニスを選びました。ここから、ソフトテニスという奥の深い競技との出会いとなりました。コーチであった及川与四郎さんに朝6時半から先輩達が、朝練に来るまで教えていたたきました。
 盛岡女子高校に入学して、宮田勤先生に指導していたたきました。試合でこまらないテニスを教えていたたき始めのうちは、中学と高校のテニスの違いにさいなまれ練習についていくのが大変でした。1年の新人戦から、先輩と組みレギュラーとして、県大会団体2位、個人3位でした。県インドア大会で団体優勝しました。個人3位でした。東北インドア大会では、団体優勝、個人3位に入賞できとても嬉しかったです。これらの試合の中には、ミスをすると消極的になってしまい、宮田先生には、「下を向いて、困った顔をするな。」とよく言われたものです。
 2年の春休みに、ソフトテニスの普及でカナダ遠征に行きました。1人ずつホームステイしましたが、英語がさっぱり分からなかったことが印象に残っております。遠征の成果もあり高総体で団体優勝し、インターハイに出場しました。
 最初20名ぐらいたった同級生は、2年の秋には、私1人でした。私も辞めようかと何度も考えましたが、思いとどまったからこそ今の私があると思います。孤独感と戦いながら、後輩たちと練習した成果が、県インドア大会で、団体・個人優勝、東北インドア大会団体3位に入賞し全国選抜に2年連続出場できました。
 3年になり、高総体では、団体・個人2位でした。個人で、インターハイに出場し4回戦まで進みました。国体にも出場することができました。
 高校を卒業して、母校の事務職員として仕事をさせていたたくことになり、一般でもソフトテニスを続け、山形・徳島・広島国体に出場することができました。平成7年には、結婚し、平成9年には女の子を出産し、今はテニスを休んでおりますが、またラケットを握りたいと思います。
 最後に、私が選手として経験したことですが、試合で緊張した時は、大きな声を出して周りを見ることができると緊張がほぐれるものです。でも、急に声を出そうと思っても、出ないので練習の時から声を出す練習も必要です。もしよかったらみなさんも考えてみてくたさい。技術もですが、精神面も強くして、今年の岩手インターハイで活躍してくたさい。

先輩に学ぼう!! 私とソフトテニス No.8

     「守」・「破」・「離」

    北上市  阿 部 正 実(JR東日本盛岡)
○私の選手時代
   私がソフトテニスを始めてから、もう37年になる。 北上中学2年に加茂収さん(現沢内中)と組み、顧問の上原啓二先生(北上、上原耕太郎、博行、俊博3兄 弟の父)の指導を受け、勝つ喜びや仲間の大切さを教えられ、以来ソフトテニスに魅せられてしまった。(仕事の都合で33才から10年間、ラケットを握れない残念な時期もあったが)50才を過ぎた現在、好きな仲間達と一緒にプレーを楽しんでいる。
  夢中になってやっていた若い頃の主な戦積は、専大北上高校1年で神戸インターハイ、2年で岐阜国体出場、一般になってからは昭和46年から5年連続で国体出場等である。この頃の思い出は楽しかったこと口借しかったことが一杯あるが、中でも加茂収さんと組んで出場した昭和46年和歌山国体の3位入賞は忘れられない。直前の練習試合で東日本1位の中村・大仲組とファイナル戦をやり、前衛の大仲辰秀さん(現ヨネックス)から激励を受けてプレーすることができた。卓越した技術を持ち私のミスを笑って許す心の広い加茂収さんと組ませてもらったこと、監督が村上照五郎先生(現県連盟会長)で選手のやる気を引き出し、自信をつけさせる人間性豊かな指導者たったこと、更にはメンバー全員のチームワークが良かったこと等が結果として顕れたものと思う。
  また、私は素晴らしい後衛とばかり組ませてもらい、多くの方々からご指導をいたたいた。紙面の都合で全ての方を紹介できないが、高校時代はペア岩倉常之さん(現八戸、会社経営)との朝昼放課後、休みなしの猛練習があり、当時強豪たった黒沢尻工高へ連日行って関村則保先生(現県連盟理事長)に技術・理論を考えさせられるご指導をいたたいた。社会人になってからは、藤原博さん(現北海道、ナガセケンコー)の日体大仕込みのプレーに魅了され、技術や戦略たけでなく人生観にも多大な影響を受けた。また、和田慶喜先生(現県連盟理事)には実業団クラブ結成(全日本実業団大会9年連続出場)当時から、JRカップ県大会開催やJRコートの管理運営等、現在でも当クラブの顧問格としてご指導をいたたいている。
○前衛的役割の考え方
  私のつたない前衛経験の中で、現役高校生に少しでも参考になればと思い、述べさせていたたく。
 〔ペアについて〕
  上手下手より、同じ目標を持った気の合う人と組んだ方が頑張れるし、上達も早い。
 〔練 習〕
 ・前衛の基本技術は、ペアの協力を得て時間がかかってもしっかりマスターする。(ペアの後衛が球出しをすることで、前衛の技衛力が把握でき適切なアドバイスもできる。)
 ・前衛の上達は相手後衛がどこにどのようなボールを打ってくるかを予測できるかどうかにかかっているので、上手い人の試合をよく見ることが大事である。
 〔試 合〕
 ・ペアを信頼する。(信頼関係があれば、デタラメなプレーはできないものである。)
 ・ペアでポイントできる得意の戦法をつくる。
 〔試合に臨んで前衛が意識すること〕
 ・自分の後衛がゲームの主導権を握っている時
 ―ポジションをしっかりとり、相手後衛の打つコースを限定させ相手からの苦し紛れのパッシングをしっかり押さえる。
 ・相手後衛の打つコースが判りにくい時、又は相手を心理的に圧倒したい時
 ―試合で一番多く通るコースはクロスなので、積極果敢にポイントにいき、相手の反応を見る。
 ・自分の後衛が相手に打ち込まれ苦しい時
 ―サイドを捨て、ミスを覚悟で相手後衛のボールを押さえに行く。(一本のポイントより自分の後衛にダメージを負わせないことが大事である。)
 ・両チームの力量が枯抗している時
 ―相手前衛とのポジション争いが鍵となる。先にポジションをとれると先手で勝負できるが、相手前衛に先にとられるとフォローの体制をつるしかない。(この場合、自分の後衛にコースを変えてもらい、あらためてポジションをとり直すことになる。)
  以上、思いつくまま述べてみたが、賢明な高校生諸君は私が「攻め」のタイプの前衛たと判ったと思う。その通りで、全ての前衛的役割の選手に当てはまるものではない。私の考えは、例えば5本アタックされた時は2本 押さえればいいと考える。それは、2本相手に取られるが、もう1本は相手がミスをするからトータルでは3対2で勝ちになる。しかし、自分から押さえに行った時は、必ずポイントしようと心がける。それは自分のペアが次のことを考えてポジションを変えているからである。自 分が押さえなければ後には誰もいないのでポイントされてしまう。また、私はサイドを守るという気持ちは持たないようにしている。もともと守ろうとするとミスをしてしまうこともあるが、極力中央にポジションをとってサイドに打たせるよう誘うようにしている。守るより攻めた方がポイントしやすいし、気持ちの上でも強気になれると思うからである。
○守・破・離
  物事には必ず基本というものがあり、ソフトテニスにおいても基本技衛や試合でのセオリーは絶対会得しなければならない。しかし、レベルが高くなれば基本たけでは勝てなくなるので、応用の技術・戦略が必要になる。それをどんな相手にでも対応できる強い精神力と多くの技術、戦略が備って万全の形が確立される。(但し、応用ができなくなった時は基本を守ることが大事なことである。)
この考え方は、Γ守」・Γ破」・Γ離」といい「北辰一刀流」の奥義なそうである。
現役高校生の皆さんは、是非同じ目標を持って頑張っている仲間を大切に、心身と技術の錬磨に励んでほしい。試合に勝てば自信がつくし、負けた時は口惜しいものの頑張ったという満足感が得られる。また、苦しい時や気持ちが落ち込んた時は、仲間の激励で早く立ち直り前向きな姿勢で頑張ることができる。そして、この経験は将来社会人となり会社等縁縁の一員として活躍する時に必ず活きる。目的意識を持って充実した高校生活を送り、卒業後もいつまでも楽しめるソフトテニスを続けてほしい。

    カメの足、体育Γ3」でも努力次第でなんとがなる

          北上市 平 野 法 子(農業)
 よんころ愛読者の皆様、お元気でしょうか。
 昨年は、私にとってはもちろん、皆様にとっても感動の年だったと思います。
 黒北インターハイ優勝、おめでとうございます。(優勝決定直後、黒北OB秋田さん谷藤さん、古内さんのお母さん方と、たきあって、涙し喜びあっていました。)
  「日本一になる」という夢をもち、日々縁習に励んできた事と思いますが、まさにΓ夢は叶うもの」を身をもって教えてくれました。生徒達、指導者、父母、三者一体となっての実現、又、OB会の力があっての実現たったと思います。私の母校でもある黒南も念願の初出場。遠く川崎市からも駆け付けてくれた同級生も含め計8名の大応援団を結成。(黒北の応援、負けましたが)今もって衰え知らずの黄色声での応援。結果は初戦突破こそなりませんでしたが、地元でのプレッシャーもありながらの試合は良くがんばってくれたと思います。一勝する事の難しさを痛感してきました。
 インターハイ関係者の皆様、選手の皆様、本当に御苦労様でした。そして感動をありがとうございました。
 さて、私事になりますが、「私とソフトテニス」という事でしたので、35年前の記憶をたどってみたいと思います。
 中学時代、顧問の上原先生(土原耕太郎先生のお父上)コーチ、富岡さん(国鉄勤務)に楽しいテニスを教えていただき、ボールが打てる事、続ける事、それたけで満足していました。県南大会で花巻中の似内さん(岩手国体成年女子出場)のガッツあるプレーを見て、私もあんなふうになりたいと思って帰ってきたのを覚えています。
 高校入学、迷わずテニス部に入部、部室には「打倒宮古高校2の幕があり、びっくりさせられました。又、先輩、後輩のけじめが厳しく、何かある度に、ミーティング(実は説教教だったのでは)の連続で、頭より体を使いたい等と生意気な事を思っていました。2年のインターハイ予選は、先輩と組ませてもらいましたが、敗者復活でも勝てず、自分の精神的弱さを十分思い知らされ、先輩に申し訳ない事をしたという事たけが頭から離れませんでした。
 高3 (S44年)飯塚先生との出会いがありまして、精神面で随分鍛えていただきました。「すごい先生がくるんたって、若いんだって……」とのうわさが流れ、ワクワク、ドキドキし心待ちにしていたのです。そして、全くうわさ通りの先生でした。先生の愛車、赤い軽自動車が見えると「来た来た」と顔も気も引き縁め、一段と声を張り土げていました。今時に言われる「体罰」は日常茶飯事。自称「愛のムチ」だったと思います。又、私もそれは当たり前と思っていましたので、「愛のムチ」がなかった日には、無視された気持ちになり、ますます、頑張っていたような気がします。(押すたけでは育たないし、引く事の大切さが、よくわかります。)高総体予選は団体優勝を狙っていたのですが2位どまりで残念な結果に終ってしまいましたが、個人戦ではなんとかインターハイに出場する事ができ(千葉県の茂原市)ました。インターハイでは3回戦で愛媛県の選手の前衛が大きかった事たけは今でも、はっきり覚えています。先生には「後衛は、バカでもできる(後衛の皆さんごめんなさい。)ボールを拾って拾いまくる事、コートの半分は後衛の仕事」が口ぐせで体で覚えるまで縁習、縁習でした。国体も代表にはなったものの東北大会で負けてしまい出場できませんでした。
 私は優勝には縁のない高校時代でしたが、国体への夢をもちはじめたのはそのおかげたったかも七れません。又、S45年は岩手国体の年、常盤台コート管理人の大沼さんには、コート土のマナーや、テニスは礼に始まって礼に終わる等沢山の事を教えていたたきました。そして、身近に国体という大会を見る事ができ、自分の目標としていました。国体へは23才の時に北海道から(仕事で札幌在中)出場しました。 こんな私でも(ちなみにカメの足たったのです。体育も3どまり)努力次第でなんとかなる事を知り、子供達にもよく、目標をもって人より少し多く頑張る事を話しています。北海道からは2回、岩手からは3回参加しましたが、満足した試合はなかった気がします。結婚してがらの方が、集中してできたような気がします。子供を連れての試合でペアの佐々木公子さんには、大変迷惑をかけました。「大丈夫、大丈夫」とたけ言ってくれ励ましてくれました。(試合中には子供の泣き声、試合が終わると、子守に変身でしたので、集中するどころではなかったと思います。)そういう意味でも、相手の理解が大きな力になっていたと思います。
 テニスは、私に沢山の人との出会いを与えてくれました。又、私もなんらかの形でテニスと関っていきたいと思っていますので、皆様の御指導宜しくお願いします。
 沢山の人との出会いに感謝し、これからの沢山の人との出会いを楽しみしてペンを置かせていたたきます。



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